京の地獄へおこしやす

平安時代の京は、当時の最先端の都市計画によって作られ、御所を「魔」の存在から守る「四神相応」の都となっていました。

東:青龍:鴨川
西:白虎:山陰道
南:朱雀:巨椋池
北:玄武:船岡山

しかし、これは地上の話。

どうやら平安京の地下には地獄が広がっていたようです・・・。

井戸を使って地獄に出入りした男

京都の東山に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)というお寺があります。

平安時代初期を代表する文人官僚・小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺院です。

 

小野篁は、遣唐使・小野妹子(おののいもこ)の子孫。

彼の孫には三十六歌仙の小野小町や書家の小野道風(みちかぜ)がいます。

小野篁は大変優れた政務能力を持ち、官職では文章生から参議、従三位にまでなりました。

文武に秀でた才能に溢れる彼の身長は190cm近くという巨漢。

間違ったことだと思えばノーと言える反骨精神にあふれた、当時の平安貴族イメージとはかなりかけ離れた人物で、「野狂」のニックネームもありました。

 

小野篁は高級官僚であると同時に、井戸を使って地獄へ出入りしていたという不思議な人物でもあります。

そして地獄への入り口として使っていたのが六道珍皇寺でした。

 

小野篁は、昼間は朝廷で官吏をし、夜には冥府で閻魔大王の裁判の補佐をしていました。

かつて篁は、嵯峨天皇の怒りを買い死罪になりかけたことがありましたが、藤原良相(よしみ)のおかげで死罪を免れました。

そのため恩人の良相が病死したとき、今度は篁が閻魔大王を説得。

良相は現世によみがえったといいます。

ちなみに『源氏物語』で愛欲を描いた罪で地獄に落とされた紫式部を助けたのも篁だといわれています。

地獄の入り口と出口

小野篁が地獄への入り口として使っていた六道珍皇寺の「小野篁冥土通いの井戸」。

この寺は、平安時代の葬送地であった鳥辺野(とりべの)に位置しており、寺の周辺は、あの世とこの世の分岐点という意味の「六道の辻」と呼ばれていました。

また、彼が使っていた地獄からの出口の井戸があったとされた福正寺も化野(あだしの)と呼ばれる葬送地にありました。

死の世界から現世に戻る地点にあったので「生(しょう)の六道」と呼ばれていたのです。

 

福正寺は明治時代に廃寺となり、1880年に清凉寺(嵯峨釈迦堂)境内にある嵯峨薬師寺に合併されました。

昭和35年には冥界からの出口と伝えられる七つの井戸が福正寺跡とみられる藪の中から発見されましたが、その後埋め立てられたため井戸は残っていません。

また、もう一箇所地獄の出口とされる場所が近年見つかっています。

六道珍皇寺に隣接する旧境内の土地にある「黄泉がえりの井戸」で、現在は一般公開されています。

 

このように京都には幾つか冥界へ行き来できる入り口や出口がありました。

京都の町には美しい極楽のような有名寺院が沢山ありますが、その地中には暗くて深い地獄が広がっているのかもしれません。

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