1865年。
坂本龍馬は、会社を立ち上げるにあたり社名にも頭を悩ませたことでしょう。
「亀山社中」の名で設立された貿易結社は、後に海援隊となるわけですが、一般的には「亀山」という地名にちなんだといわれています。
ただ、一説には光秀公が丹波攻略の拠点とした亀山城から社名をとったという説もあります。
坂本龍馬の家紋「組あい角に桔梗紋」に明智光秀の家紋「桔梗紋」が一致するという指摘も見られるため、実は坂本龍馬は明智光秀の子孫であったという見識が取りざたされるようになったのです。
しかも、坂本龍馬自身が、自分は明智光秀の子孫だと言っていました。
もしも、坂本龍馬が明智光秀の子孫だったことが周知の事実であったとしたなら、幕末史にも大きな影響を及ぼしていることでしょう。
今回は、幕末の風雲児・坂本龍馬を振り返るとともに、明智光秀子孫説の真偽を検証していきます。
幕末の風雲児・坂本龍馬
幕末の風雲児を生み出したのは、現在の高知県にあたる土佐藩です。
坂本家は下級武士でしたが、商いでの収入があったため、生活そのものはとても裕福でした。
青年時代は江戸遊学を経験し、尊王攘夷を目指す土佐勤王党へ加入します。
しかし、ほどなくして脱藩をし、紆余曲折あって海軍を取り仕切る幕臣・勝海舟に弟子入りします。
神戸海軍操練所で航海術や語学の習得にはげんでいた坂本龍馬ですが、操練所のメンバーが反幕府集会に参加していたことで、操練所は取り潰しとなってしまいます。
そこで、操練所の仲間たちとともに、長崎で日本発の商社である「亀山社中」を設立。
後に「海援隊」と改めました。
海援隊を経営しながら、同郷の中岡慎太郎とともに、薩長同盟実現のために奔走。
坂本龍馬による仲介のもと締結にいたります。
船中八策で大政奉還にも言及したとおり、この坂本龍馬の着想は土佐藩主から幕府へと進言され、江戸幕府200年の歴史に終止符が打たれます。
それからは、新政府の組織作りを進めていた坂本龍馬でしたが、大政奉還から一ヶ月、潜伏していた近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺され、33歳で命を落としました。
坂本龍馬と明智光秀
商人でありながら郷士株を買って土佐藩士となった坂本家では、明智光秀の娘婿である明智秀満からの末裔だと言い伝えられています。
現在では、この明智秀満は明智家の出身で、光秀の従弟だとする説もあるようです。
明智光秀の居城であった坂本城が陥落したときに、土佐へと逃げ落ちて酒屋をはじめたとされています。
そのため、坂本家の家紋を桔梗紋と酒の枡をかたどった組あい角にしたのです。
琵琶湖の南湖に築城された坂本城は、宣教師ルイス・フロイスがこの明智の城ほど天下に有名なものはないだろうと称す名城であったとされています。
この坂本城から名字をとったとも考えられています。
戦国時代に土佐をおさめていた長曾我部氏と明智光秀は親しい関係でもありました。
坂本龍馬を明智光秀の子孫と断定するのには資料が少ないと言わざるを得ませんが、長曾我部氏をたよって土佐に逃れたというのは、いかにも筋が通っているともいえます。
もしも坂本龍馬が光秀公の子孫だったら…
明智光秀の子孫であることをかくさなければならないような事情もなく、坂本龍馬も「わしは、光秀公の末裔ちや」と触れ回っていたそうです。
ですが、これが冗談でもなんでもなく、仲間内だけでなく各方面で公認されていた事実だとしたら事情は大きく変わってきます。
敵は本能寺にあり!と朝廷をないがしろにしていた織田信長を討ち取ったことから、明智光秀は朝廷にとって恩人ともいえるべき人物です。
そのため、朝廷が明智光秀の子孫が坂本龍馬であることを認めていたのだとしたら、さまざまな要望にも応えようとしたはずです。
一部からは、一介の浪士であった坂本龍馬が、どうしてこれほどの偉業を成し遂げることができたのかという疑問が投げられていますが、これも朝廷のバックアップがあったとしたらつじつまが合います。
幕末の風雲児・坂本龍馬が明智光秀の子孫であることは断定することができませんが、いずれにしても、現代に残された資料をひも解いてみると、日本の人たちや自国の領民たちのしあわせを何よりも願っていた、そんな心の優しいところは似ているといえるのではないでしょうか。