萩のひとたちは松陰先生の教えを大切にしています。
市内の小学校ではこどもたちが松陰先生の教えを学んでいます。
地元の人たちにとっては、幼いころから教えられているあたりまえのことなのかもしれません。
松陰先生こと吉田松陰は、私塾・松下村塾でたくさんの生徒を指導しました。
松下村塾からは、薩長同盟を締結し版籍奉還や廃藩置県を推し進めた桂小五郎、功山寺挙兵を成功させた高杉晋作、初代・内閣総理大臣となった伊藤博文など、数多くの偉人を輩出しているのです。
現代にも受け継がれる、その教えとはどのようなものなのでしょうか。
今回は、吉田松陰の人物像と教育理論とともに、現代人にもためになる教えをご紹介します。
吉田松陰はこんな先生
明治維新を主導することになる青年たちを教育したことで知られる吉田松陰ですが、彼らの「先生」となるまでは、どのような人生を送っていたのでしょうか。
吉田松陰は、家禄26石という兼農武士だった杉家の次男として誕生。
教育熱心な実父と学問に優れた叔父から教育を受けて育ちます。
萩藩山鹿流兵学師範であった親戚の吉田大助に養子入りし、幼年ながら家督を継ぐと、藩校・明倫館の兵学師範にわずか9歳で就任するほどの秀才として知られるようになります。
さらに、藩校・明倫館の兵学教授となっていた青年期には、すでに藩主にも意見書を提出するほど、積極的に藩政にも関わっていくようになります。
海防掛として江戸に着任してからは、西洋の情報を収集しながら佐久間象山のもとで学んでいましたが、東北視察をきっかけに脱藩をします。
江戸に帰着してから萩の実家での謹慎処分を言い渡されますが、ほどなくして江戸に戻り、黒船来航で密航をしようとするもアメリカ側に受け入れてもらえず、ふたたび捕らえられてしまいます。
その後、萩の実家で謹慎処分になると、自宅での孟子の講義が評判となり、やがて叔父の松下村塾を引き継ぎ、若者たちを教育するようになります。
ですが、安政の大獄で詮議を受けたとき、日米通商条約締結に反発し、老中・間部詮勝の暗殺を企てていることを公言したため、30歳で処刑をされました。
吉田松陰の教育理念とは?
松下村塾では専門である山鹿流兵法ばかりでなく、当時は一般的に教えられていた孟子から、倫理、地理、歴史、政治、経済にいたるまで、さまざまな学問が教えられました。
世界情勢が混沌を極めながらも、その全容が把握しきれなかった当時、吉田松陰は積極的に世界史についても取り上げました。
黒船来航以来の危機に対応するためには、世界情勢に明るくなければならないと考えていたのです。
松下村塾の講義は、現在の日本で主流となっている教師による講義ばかりではありませんでした。
むしろ、吉田松陰と生徒たちによるディスカッションに多くの時間があてられました。
白熱した議論は深夜まで及ぶことも珍しくなく、松陰の家族が夜食を用意することもありました。
また、生徒が教壇に立って授業を行うということにも特徴があるといえるでしょう。
その授業の後には、フィードバックを兼ねて、全員での討論が設けられました。
このような松下村塾のカリキュラムには、生徒たちの自主性を伸ばしたいという意図があります。
そしてよりディスカッションを活発にするためにも、コミュニケーションが不可欠であったため、さまざまなイベントを企画しては親睦を深めていたといわれています。
現代人が知りたい松陰先生の教え
明治維新の精神的な指導者ともいわれる松陰先生の教えには、現代人にとっても精神的なアドバイスとなるものがたくさんあります。
「何もせずに機会を失うことは、人の罪である」
「賢者は議論よりも行動を重んじるものだ」
松下村塾でいかに行動力が大切なのかを生徒たちに教えていた松陰先生の言葉です。
そして、出身者が明治維新を牽引できた背景には、この行動力があってこそだといえるでしょう。
「宜しく、まず一事より一日より始めるべし」
いかに行動力が大切であっても、大事を成し遂げるためには小さな一歩を積み重ねなければならないということも、松陰先生はよく理解していました。
明治維新が成功するまでも、志士たちの努力と犠牲があってのものでした。
「親思う 心にまさる 親心」
吉田松陰の辞世の句は、この上の句がよく知られています。
いつの時代でも、親心にまさるものはないのかもしれません。
現在、現存する松下村塾は吉田松陰を祭神とする松陰神社の境内にあります。
当時の生徒たちの保全活動によって、現在でもほとんど当時の姿のまま残っているのです。
2015年には明治日本の産業革命遺産として世界遺産にもなりました。