はじめに
丹後局(たんごのつぼね)――高階栄子(たかしなのえいし)は、晩年の後白河法皇に愛された女性です。
しかし、その前はただの中流の官僚・平業房(たいらのなりふさ)の妻でした。
高階栄子はいったいどのようにして後白河法皇に愛されるようになり、丹後局となったのでしょうか?
平業房の妻
栄子には、平業房という夫がいました。
平という苗字ではありますが、彼は清盛が率いる平家一門のような家柄ではなく、中流の官僚でした。
業房は中年を過ぎてから、相模守という役職を手に入れます。
守という役職は、税を取り立てて中央に送るというのが仕事です。
業房をこの役職に押し上げたのが、妻である栄子でした。
栄子の実家はお金持ちで、結婚した時の持参金は相当のもの!!
都の郊外に山荘だって持っていました。
栄子はこの豊富な財力で夫を助け、その結果として相模守という役職に就かせることに成功したのです。
夫・業房の死
地位を手に入れた業房は、時の権力者であった後白河法皇に近寄りました。
当時は、出世コースに乗るために権力者に近づくことはよくあったことで、それが手っ取り早く出世できる方法だったのです。
この時にも栄子は業房を助けます。
後白河法皇を栄子の持つ山荘に招待してもてなすことで、業房に対する評価はぐんっと高まりました。
業房はその後、後白河法皇の側近にまでなりましたが、そのために殺されてしまいます。
平清盛による治承三年の政変の影響で、法皇の側近であったために業房は流罪となり、脱走しようとして殺されてしまったのです。
さて。
夫が亡くなったあと、栄子はどうしたのでしょうか?
後白河法皇に仕える
清盛により幽閉された後白河法皇。
栄子は清盛と交渉して、後白河法皇に仕えることになります。
美貌に恵まれた女性だったようで、彼女は後白河法皇に愛され、丹後局と呼ばれるようになります。
2人の間には娘も生まれました。
そして清盛が亡くなると、後白河法皇に愛され、また信頼もされていることから、丹後局は政治にも関わるようになります。
九条兼実は日記『玉葉』の中で、丹後局のことを『朝務は偏にかの唇吻にあり』と言っています。
『政治のことは丹後局の言葉によって決まる』ということです。
その権威から楊貴妃にまでたとえられたというのですから、彼女がどれだけの発言力があったのかが分かりますね。
後白河法皇が亡くなると・・・
1192年に後白河法皇が亡くなると、丹後局はすぐに出家しましたが、その後も政治への介入は続けます。
しかし、後鳥羽上皇による院政が始まると、ついに丹後局の権威は衰え、宮廷を去ることに……。
そして1216年に亡くなりました。
夫の死を経験してから始まった、栄子の“丹後局”としての第二の人生。
彼女自身は、この生涯をどんなふうに考えていたのでしょうか?