子どものため、孫のため。鸕野讃良皇女が天皇に即位したわけ。

<出典:wikipedia

 

13歳で結婚!そのお相手は・・・

天智天皇と遠智娘の間に生まれたのが、鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)

鸕野讃良皇女は13歳で結婚することになりました。

相手はなんと、父・天智天皇の弟――つまり、叔父さんである大海人皇子でした。

27歳の大海人皇子には他にも奥さんがいて、子どももいました。

現代は叔父さんと姪っ子は結婚することはできませんが、当時には珍しいことではありませんでした。

同じ時期に鸕野讃良の姉・大田皇女も大海人皇子の妻となり、その後にも異母妹が嫁ぎました。

現代の感覚からすれば、この結婚の複雑さは計り知れませんが……鸕野讃良はどう思っていたのか、気になるところです。

 

その後、鸕野讃良は17歳の時に草壁皇子を産みました。

即位しなかった鸕野讃良

大海人皇子は壬申の乱で大友皇子を倒すと、天武天皇として即位します。

鸕野讃良は皇后として、天武天皇の政治を補佐していました。

天武天皇が亡くなった後は、鸕野讃良は皇后のまま政治を行いました。(称制)

この時点では彼女はまだ天皇ではありません。

もしかしたら、天皇になる気はなかったのかもしれません。

それでは、持統天皇はなぜ誕生したのか?

それは、天武天皇に鸕野讃良と共に後を任された息子・草壁皇子が死んでしまったからです。

息子の代わり、孫の代わりに持統天皇となる

息子であり皇太子でもあった草壁皇子が急死してしまい、鸕野讃良は困ります。

草壁皇子を天皇にしようと思っていたからです。

天武天皇の息子は他にもいるので、草壁皇子の息子(鸕野讃良の孫)を皇太子にしようにも簡単にはできません。

そこで鸕野讃良は、自分が天皇になることを決めました。

こうして誕生した持統天皇は、孫の軽皇子(のちの文武天皇)に譲位するまでの間に飛鳥浄御原令を施行するなどして、体制を整えました。

 

天智天皇の死の時には天皇にならなかったのに、どうして持統天皇となったのか?

それは軽皇子にすべてを譲りたいと思っていたから、天皇という位を自分が守りたかったのではないでしょうか?

持統天皇は軽皇子の即位から5年後に亡くなりました。

歌人として残したもの

歌人としても名前を残している持統天皇。

万葉集に『春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山』という歌があります。

この万葉仮名の歌を、定家仮名遣いでアレンジした『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山』という歌は、百人一首に撰ばれています。