はじめに
日本人は大のお風呂好きな国民といわれていますが、その起源はどうやら江戸時代にまでさかのぼるのではと考えられています。
それというのも、江戸市中ではいわゆる「銭湯」が栄え、各町ごとに必ず一軒はお風呂屋さんがあるといわれるほど多くの店が存在しました。
江戸の人々もとにかくお風呂が大好きで、ヘビーユーザーは一日に何度もお湯に浸かったため、脂分が抜けたような肌をしていたそうです。
この状態が「垢抜けた」という言葉の語源になったともされ、江戸っ子の粋なスタイルに入浴は欠かせなかったのです。
今回はそんな、江戸時代の銭湯についてご紹介しましょう。
江戸の町に内風呂は少なかった
現代ではワンルームマンションなどでもシャワーやお風呂が設置されているのが当たり前になりましたが、昭和の半ば頃までは内湯を備えていない家はごく普通のことでした。
水と燃料の確保、浴室という設備の設置と維持が一般庶民には大変な負担だったというだけでなく、何よりも危険な火災を引き起こす可能性があったからです。
竈や火鉢の熱源ですら厳重注意でしたが、それでも江戸の町は乾燥した空気も相まって、実に火事が多かったのです。
したがって、大身の武家などの家屋に設けられる例を除き、一般の個人が内風呂を作るのは基本的に禁じられていたのです。
そのため、公衆浴場である銭湯が大いに利用されました。
銭湯は一日過ごせる娯楽場だった
現代の健康ランドのように、江戸時代の銭湯は入浴だけではなく総合的なくつろぎの空間としても機能していました。
当時の銭湯は多くが二階建てになっていたといわれ、一階が浴場、二階部分は共有スペースの大広間になっていました。
そこでは碁盤や将棋盤が据えられ、男性客がメインだったようですがおしゃべりなどにも興じながら一日中過ごすことのできる、サロンになっていたのです。
ゆっくりとお湯に浸かり、十分に身体が温まったところで二階に上がって顔馴染みの人たちと世間話に興じ、時おり他人の碁や将棋の勝負を観戦しては、また風呂を浴びに行く、といった楽しみ方が、一回分の料金でできたためお得な過ごし方だったのでしょう。
江戸時代までは混浴が普通だった
意外なことに、江戸時代の銭湯は基本的に男女混浴が普通でした。
これにはペリーなどの外国人も大いに驚いたことが記録されています。
しかし、当時の銭湯は熱気が外に逃げないように「ざくろ口」と呼ばれる低くせまいガードが浴槽前に設けられており、なかは薄暗かったためマナーよく入浴することが求められたといいます。
もちろん、他人をじろじろ見るようなことも礼節違反であり、お互いに風呂場でのエチケットを十分に守っていたからこその習慣だったようです。