時は平安。
1024年12月8日付の右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記』にはこう記録されています。
「一昨日のこと、花山法皇の皇女が盗賊に殺害されて路上で死に、その遺骸が夜中に犬に食われた」。
『小右記』は「賢人右府」と呼ばれた人格者、藤原実資の日記で、平安時代の貴族生活を知るための第一級史料として知られているものです。
そして、同じ事件を題材にした話しが、12世紀に編纂された説話集『今昔物語集』にも載っています。
説話の中では人物設定が違っていますが、状況的に同一の事件を元にしたものだと考えられます。
そこで、歴史的事実に加え、『小右記』と『今昔物語』から事件の概要を再構築してみます。
事件の被害者「花山天皇の皇女」とは
亡くなった女性は、間違いなく花山法皇の皇女でした。
花山法皇はかなり女性に無節操で、死亡したのは花山法皇とある愛人女房との間の娘だったのです。
彼女は世間体の悪い皇女として、別の女房のもとに里子として出されてしまった不運な娘でした。
女房の娘として育てられ、その後太皇太后藤原彰子(藤原道長の娘であり、一条天皇の后)に仕える女房の一人として勤めに出るという、およそ皇女らしくない扱いを受けていました。
事件の夜・・・
ある夜、皇女が出仕していた彰子邸に強盗が入りました。
侵入に気づいた屋敷の者たちが騒いだために、結局強盗はほとんど何も盗らずに、手近にいた身分の高そうな女性を一人拉致して逃走。
当時は、まだ貨幣が流通しておらず、金目のものと言えば、女性の衣裳だったからです。
女性から衣裳をはぎ取る時間がなかった強盗は、まず彼女を外に連れ出して、そこで衣裳を奪ってから逃げ去りました。
冬の路上に一人残された皇女は、光もない暗闇の中、誤って水路に転落。なんとか水路から這い上がり、近くの家々に助けを求めます。が、当時かなり物騒だった平安京に、真夜中の見知らぬ訪問者を迎え入れようとする家などありません。
こうして、ずぶ濡れの上半裸の彼女は、12月の寒さに凍死してしまったのです。
そして夜明けまでの間、道に放置されていた皇女の遺体は徘徊していた野良犬たちによってずたずたに噛みちぎられてしまいました。
発見されたときにその場に残っていたものは、黒くて長い髪の毛と血まみれの頭部、そして紅色の袴だったそうです。
事件の犯人とその後
この事件のあとに捕まったのは隆範(りゅうはん)という男。
のちに別の男が「自分が首謀者だった」と自首してきたため、その男が主犯、隆範が共犯ということで決着しました。
彼らの黒幕に皇女を口説き落とせなかった藤原道雅(みちまさ)という乱暴者の貴公子がいたという隆範の自白もあったのですが、貴族社会はその事件に名家の貴公子が関わることを嫌ってか、事件はあいまいで歯切れの悪い形で終止符が打たれました。
その事件のしばらく後に道雅はなぜか明確な理由がないまま職を奪われています。
平安時代の闇
恋愛をして和歌を詠み、蹴鞠をして笛を吹いているだけが平安貴族の生活ではありません。
そこにはドロドロの人間模様と、ひどく残酷な現実社会があったことがこのエピソードにもあらわれているとは思いませんか。
参考文献:繁田信一著「殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語」