<出典:wikipedia>
はじめに
「関東ローム層」という地層の名前を聞いたことがあるでしょうか。
日本では火山の噴火によって降り積もった火山灰起源の土壌を中心とした層の総称であり、歴史学の世界でも重要なポイントとされていました。
それというのも、昭和24年(1949年)以前の考古学界では、日本の歴史は関東ローム層形成以降の縄文時代から始まると考えられていたためです。
つまり、関東ローム層以下の地層の時代には人類の痕跡はなく、日本には旧石器時代は存在しなかったという考えが学会の趨勢を占めていたのです。
なかには日本にも旧石器時代がったことを主張する研究者もいましたが、当時は学会から厳しい批判にさらされたといいます。
しかし、真実はそうではありませんでした。
関東ローム層の中から石器を発見し、縄文時代以前にも人類が確かに日本列島に存在したことを証明した考古学者がいたのです。
その名は相沢忠洋。
ただ一心に考古学研究に邁進した、情熱の考古学者です。
そんな相沢忠洋について、ご紹介したいと思います。
相沢忠洋とは
相沢忠洋は1924年(昭和元年)生まれ、幼少の頃より考古学に関心を示し土器片などを集めるのが好きな子供だったといいます。
長じては朝夕に納豆などの行商をしながら、往還の道で遺跡を探し、古代の遺物を発見するという地道な活動を続けていました。
相沢がとった手法は「表採(表面採集)」と呼ばれ、表土に散らばる土器や石器から遺跡の存在を特定するというものでした。
なかには切り通しの崖面から地層が露出し、そこに遺物が包含されている様子が分かることもありました。
この表採という方法は考古学のフィールドワークでは最も重要な基礎といっても過言ではなく、相沢は徹底してこの地道な研究を続けることで遺跡の様相や、考古遺物の観察眼などを研ぎ澄ませていったのです。
実証の学問たる考古学の、本来あるべき姿といえるでしょう。
岩宿遺跡の発見
相沢が関東ローム層中から石器を発見したのは1949年(昭和24年)のことでした。
現在の群馬県みどり市にある、岩宿遺跡です。
日本に旧石器時代が存在したことを初めて証明した歴史的な遺跡ですが、当初は相沢の功績が正当に評価されたとは言い難い状況でした。
しかし、それでも相沢は考古学への情熱を絶やすことなく研究に打ち込み続けました。
やがて相沢への考古学者としての評価が適切になされるようになり、1967年(昭和42年)に吉川栄治賞を受賞。
1989年(平成元年)の没後同日には勲五等瑞宝章が授与されました。
歴史に残る偉業を成し遂げながら驕ることなく、一心に考古学を追求した情熱の生涯でした。