<出典:wikipedia>
はじめに
浅井三姉妹とは、浅井長政・お市夫婦の間に生まれた三人の娘たちのことを指します。
次女として生まれた”初”の人生には、豊臣秀吉の側室になった姉・茶々、徳川秀忠の正室になった妹・江のような派手さはありません。
しかし、母であるお市から受け継いだ聡明さで、彼女はしっかりと自分の足跡を残しました。
苦難の連続
“初”は人生で二度も落城を経験します。
一度目は4歳の時で、父親を亡くしました。
二度目は14歳で、今度は母親を亡くします。
この二度目の落城は、豊臣秀吉によるものでした。
秀吉は織田信長の家臣で、初の母親であるお市はその信長の妹でしたから、その後に秀吉が”初”の結婚をまとめます。
相手は京極高次という人で、実は”初”のいとこでもありました。
さて、”初”の夫となったこの京極高次は、あまり有能とは言えない人でした。
本能寺の変で明智光秀に味方し、秀吉に追放されてしまうのですが――その後に秀吉の側室になった姉のおかげで許された、という経歴があります。
そんな京極高次ですが、のちに初の聡明さにより近江大溝1万石から大出世を遂げ、最終的には若狭小浜8万5000石を与えられることになります。
大津城の戦い
1600年に起きた関ヶ原の戦い――この前哨戦とされるのが、大津城の戦いです。
高次は西軍に味方して出陣しますが、その後に大津城に戻ると東軍に寝返ります。
これによって猛攻を仕掛けてきた西軍を相手に、3日間の籠城。
開城した9月15日が関ヶ原の戦い当日だったことから、西軍を足止めして東軍勝利の一因を担ったとして、8万5000石を徳川家康から与えられます。
高次に東軍に味方するよう言ったのは”初”でした。
しかも、所領を与えられるまでも”初”が根回しをしたのではないかとされています。
そしてこの9年後(1609年)に高次が亡くなると、”初”は出家して常高院となりました。
大坂の陣・和平交渉の使者
徳川家康と豊臣秀頼との関係がいよいよ悪化すると、大坂の陣が始まりました。
“初”は豊臣側の使者として、徳川との仲を取り持とうと奔走。
家康の側室・阿茶局と共に、大坂城で自分の姉である茶々(淀殿)とその息子・秀頼との和平交渉を行います。
その結果、大坂城の堀を埋めることで休戦、と話がまとまります。
三姉妹で一番の長生き
“初”は1636年に、68歳で亡くなります。
姉の茶々は50歳前に、妹の江も54歳で亡くなったため、姉妹の中で最も長生きしました。
“初”の人生には、姉と妹のような派手さはありません。
しかし、彼女の起こした行動は歴史に残っています。
それは行動の一つ一つに、先を見る“聡明さ”があったからではないでしょうか?