はじめに
悲しみの記録!『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』。
讃岐典侍というのは作者の女房名で、本名は藤原長子といいます。
長子の曾祖母は『蜻蛉日記』の作者で、勅撰集や百人一首にも撰ばれた才能の持ち主でした。
同じく日記文学として『讃岐典侍日記』を残した長子は、曾祖母のDNAを受け継いでいると言っていいかもしれません。
そんな長子が『讃岐典侍日記』を書いたのは、彼女が女房として堀河天皇に仕えて――その堀河天皇が病気で亡くなったことを、深く悲しんだからでした。
“讃岐典侍”という名前
1100年。
長子は堀河天皇のもとで、女房として働き始めます。
その翌年、長子は“典侍”という役職に就きました。
典侍とは、天皇のそばで身の回りの世話をする人のことを言います。
“讃岐”というのは、長子の父・顕綱が讃岐守(その他、丹波など)だったから。
こうして、長子は“讃岐典侍”と呼ばれるようになります。
心から仕えた堀河天皇の死
長子が堀河天皇の女房になったのは、彼女の姉・兼子が堀河天皇の乳母だった縁です。
しかし、長子が堀河天皇の女房として働けたのは8年程度。
この仕事では長いとは言えない期間です。
1107年の5月。
堀河天皇が病気になってしまいました。
もともと体が弱いほうだったためか、6月にはとても重い状態になり、7月19日の朝に亡くなります。
長子はその悲しみを、『讃岐典侍日記』に綴りました。
『讃岐典侍日記』に記されたこと
上巻・下巻の『讃岐典侍日記』ですが、日記ではあるものの、長子自身のことはほとんど書かれていません。
上巻では、病気で苦しむ堀河天皇を悲しみながら、懸命に看病したこと。
下巻では、堀河天皇が亡くなった後、それを悲しみながらも思い出を振り返る内容です。
『讃岐典侍日記』とは、長子の悲しみを形にしたものなのです。
堀河天皇が亡くなって……
堀河天皇が亡くなると、長子は宮仕えを辞めました。
しかし、その翌年、また宮中に戻ることになります。
堀河天皇の子どもである鳥羽天皇のため、白河法皇(堀河天皇の父)が長子に声をかけてきたからです。
こうして長子は、今度は鳥羽天皇に仕えることになりました。
長子は堀河天皇に、一生懸命仕えました。
『讃岐典侍日記』がそれを証明しています。
しかし、思い入れが深かったためか、鳥羽天皇に仕えて10年が経った秋ごろから、長子は心を病んでしまっていたようです。
そして、1119年の8月23日に、宮中を離れることになりました。
このことは、源師時の『長秋記』に記されていますが、長子のその後のことは分かっていません。
思い入れの強さから、悲しみの中に生き続けたのかもしれません。