<出典:wikipedia>
はじめに
「剣の達人」といえば多くの術技に精通し、華麗な剣さばきで敵を寄せ付けないといった強さをもつ人を想像するかもしれません。
たしかにそういった剣士像もひとつの強さの形ですが、なかにはただひたすらにシンプルな技を極限まで練り上げ、朴訥淡々とした職人肌ともいえる修行者もいました。
そんな剣士の一人が榊原鍵吉(さかきばらけんきち)。
幕末から明治の世を生き、滅びゆく武士の世の終焉を見届ける「最後の剣客」とも呼ばれた人物です。
今回はそんな榊原鍵吉についてご紹介したいと思います。
榊原鍵吉
榊原鍵吉は1830年(文政13年)、御家人である榊原友直の長男として江戸に生を受けました。
13歳のときに「幕末の剣聖」と名高い直心影流・男谷信友の門下となりますが、同年に母が逝去します。
それに伴って住居も道場から遠くなり、加えて幼い兄弟たちの面倒を見なくてはならなくなりましたが、鍵吉は遠方の男谷道場に通い続けたといいます。
師の信友は、有名道場が鍵吉の住まいのすぐ近くにあったため移籍をすすめたそうですが、鍵吉は一度門弟の礼をとった師に対する姿勢を崩そうとはしませんでした。
その愚直なまでのまっすぐな性格もあいまって、めきめきと実力を付けていった鍵吉でした。
しかし、流派内での進級には費用が必要だったため、決して裕福ではない家計に負担を掛けまいと免状を取ろうとしませんでした。
その内情を知った師の信友は、男谷道場ですべての準備をして鍵吉に直心影流の「免許皆伝」を与えました。
鍵吉、弱冠二十歳の時だったといいます。
やがて鍵吉は幕府講武所の剣術教授・師範となり、十四代将軍・徳川家茂の剣術個人教授まで務めるようになりました。
家茂の死後は辞職し、在野の一剣術家として道場を構えます。
上野戦争では直接旧幕府軍に参戦はしませんでしたが、輪王寺宮を護衛して戦火から脱出させるなど、陰になって力を尽くしました。
「兜割り」を成し遂げた剛剣の遣い手
鍵吉の技は「薪割り剣法」と揶揄されるほど剛直なものだったといいます。
直心影流特有の巨大な振り棒によって鍛えられた豪腕で、激烈な太刀を打ち込むという真っ直ぐな剣風と伝えられています。
それを象徴するのが1887年(明治20年)に、天覧のもと行われた「兜割り」の成功です。
文字通り鉄兜を刀で斬るという荒技で、鍵吉は見事に兜に斬り込みを入れ、その力を広く知らしめたのです。
明治維新後の士族救済に奔走
鍵吉は家茂の死後は在野の剣士として生涯を過ごしましたが、職を失った士族たちの救済に尽力しました。
剣術や武術を有料で一般公開するという「撃剣興行」がそのひとつで、伝統武術の衰退を食い止めて貴重な身体文化の命脈を保ったことが評価されています。
鍵吉は維新後も最後まで髷を切らず、文字通り最後の武士として1894年(明治27年)、65年の生を全うしました。