幕末を駆け抜けた剛剣、「薬丸自顕流」。超実戦向きのトレーニング

はじめに

幕末。

それは日本の歴史上もっとも「剣」が力を発揮した時代だともいわれます。

常時大小の二刀を腰に差していた武士ですが、江戸時代のほとんどは、長い太平の世を通じて刀を抜くことはおろか、それを扱う術も形式的なものになりがちだったといいます。

ところが、幕末の動乱では古来の「剣術」が具体的な闘争の手段として再評価され、多くの有名な流派が台頭してきました。

なかでも、維新の原動力のひとつとなった薩摩藩は剛毅な気風で知られ、その精神を体現するかのような剣術が誕生しました。

もっとも著名な薩摩の剣術流派のひとつに「示現流」があります。

ただ一撃に全身全霊をかけて打ち込むという苛烈な剣法は、多くの人々の記憶に刻みこまれました。

しかし、同じ「ジゲンリュウ」と読むもうひとつの流派があることは、一般にはあまり知られていません。

その名は「薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)」。

戦場での白兵戦において無類の強さを発揮した、薩摩の剣術です。

ここでは、そんな薬丸自顕流についてみてみましょう。

薬丸自顕流とは

同じ「ジゲンリュウ」という発音をすることから、有名な「示現流」と混同されることがありますが、江戸時代後期に示現流から独立した異なる流派です。

江戸時代初めの薩摩藩士にして剣客の「薬丸兼陳」が「示現流」の剣術を学び、そこに家伝の「野太刀」の術を融合させて自身の流派を編み出しました。

「野太刀」とは、長大な戦場刀のことと考えられており、ゆえに薬丸自顕流は別名を「野太刀自顕流」とも称します。

以降、代を重ねながら独自のスタイルを醸成させていき、下級藩士を中心として多くの門弟を擁するようになります。

薬丸自顕流の特徴

薬丸自顕流では、刀を右肩に担ぐような「八相の構え」をさらに高く、剣先を空に向かって突き上げるようにした「蜻蛉(とんぼ)」という構えをとります。

この構えから標的に向かって走り込み、激烈に斬り下ろすというシンプルな技が基本となります。

そのために、木の枝を束ねたものを台に横置きにし、これに向かって気力・体力の続く限り打ち込み続けるというトレーニングを行います。

稽古で使う得物も、削った木刀ではなく「ユス」という粘りのある木の枝を用い、筋力や手の内を鍛えます。

また、「猿叫」と呼ばれる、絶叫するかのような独特の掛け声と共に打ち込むため、戦場では対峙する者に畏怖心を抱かせたといいます。

技の数は少なく、術もシンプルなもので構成されていますが、その一太刀を極限まで鍛え上げ、命を懸けて戦うという捨て身の気魄こそが、薬丸自顕流の名を轟かせる要因となったのです。

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