<出典:wikipedia>
はじめに
菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ)という女性は、物語に憧れに憧れた女性です。
彼女の考え方には常に物語が寄り添い、生き方にも大きく影響を与えます。
そんな彼女自身、自らの40年間の思い出を記した『更級日記』を残しています。
物語に焦がれた菅原孝標娘という女性は、どのような人物だったのでしょうか?
菅原孝標女の生まれ
孝標女は1008年、菅原孝標と藤原倫康女との間に生まれました。
母・倫康女は、『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者である藤原道綱母とは、母違いの異母姉妹。
つまり、道綱母は孝標女の伯母ということになります(面識はありません)。
そんな親戚関係があった孝標女は、かなりの文学少女でした。
孝標女が10歳の1017年。
父・孝標が上総介に任命されたため、それからは総の国(現在の千葉県付近)で過ごすことになります。
上総介である父を持ち、彼女は恵まれた生活を送っていたといえます。
しかし、幼い頃から物語が好きだった孝標女は不満でした。
都から離れているため、大好きな物語を思うように読めないからです。
孝標女、都へ
大好きな物語を、思う存分味わえたらどんなにいいだろう。
人から話を聞いたりするのではなく、自分で物語を読むため、都に行きたい……。
孝標女の物語への憧れは強く、毎日、神仏に祈るほどでした。
そんな孝標女が13歳の年に転機が訪れます。
父の上総介の任期が終わり、都へと帰ることになったのです。
孝標女の『更級日記』は、ここから始まります。
上総から帰京するまでの3ヶ月の旅を記録した紀行です。
そして、この年の12月。
孝標女は、焦がれに焦がれた都へと入りました。
最高のプレゼント
孝標女は、あちこちの伝手を使って物語を読みます。
特に彼女の心を捕らえたのは、紫式部の『源氏物語』でした。
しかし、いくら読みたいと思っても、『源氏物語』全巻(54帖)を借りられるような有力な知り合いはいません。
ある日に突然、孝標女の願いが叶います。
久し振りに会ったおばさんが、『源氏物語』全巻をプレゼントしてくれたのです!
その他にも、たくさんの物語をくれました。
孝標女は、ますます物語の世界にのめり込みます。
しかし、そんな孝標女も、1040年に結婚。
焦がれた物語とは違う現実に、孝標女は物語の世界を思わなくなっていきました。
物語のような出会い
結婚の前年(1039年)に、孝標女は裕子内親王に仕えることを命じられました。
結婚した後、夫は下野守に任命されたため都を離れますが、孝標女は都に残り、裕子内親王のところで仕事をします。
その日、孝標女は親王のところへ参上していました。
ある男性が声をかけてきます。
その人は色々な話をすると、ふいに「春と秋、どちらがお好きですか?」と質問してきました。
春と秋はどちらが良いかとやり取りすることは、孝標女が大好きな『源氏物語』にも出てきました。
物語のことはいつしか忘れていた彼女ですが、この物語のような出来事から、この男性に心惹かれます。
それから何度か、この男性と顔を合わせることが叶いましたが、出会いから三年した春に姿を見たきり、二度と会うことはありませんでした。
孝標女を物語のヒロインにしたこの男性は、源資通という人です。
『更級日記』には、『かしま見てなるとの浦にこがれ出づる心得きや磯のあま人』という歌があります。
『岸辺のあま人よ。加島を見て、鳴門の浦へ漕いで離れていくように思い焦がれながら、引き返した私の切なさを分かってくれるでしょうか』という意味です。
そこに、『(こんな歌を詠んだけれど)それきり会うことはなかったし、あの人のことを探るようなこともせず、時は過ぎてしまった』とあります。
この出来事は孝標女の記憶に、よく残ったことでしょう。
『更級日記』という名の思い出
孝標女が残した『更級日記』は、13歳から4年ほどを過ごした上総から、帰京する旅の記録である紀行から始まり、彼女が51歳(1058年)の時の夫の死、そしてその後を描いた回想記です。
40年間もの思い出を綴った『更級日記』ですが、孝標女が物語に焦がれる少女であったからこそ、自分の人生を“物語る”日記を残せたのではないでしょうか?