<出典:wikipedia>
松本良順 まつもと りょうじゅん
天保3年6月16日(1832年7月13日) – 明治40年(1907年)3月12日)
幕府医学所頭取を務める松本良順宅では、「よもや、斬り殺される!」と震えながら、奥間へ案内される客人を門弟や家人たちが遠巻きに見ていました。
松本良順宅を訪れたのは、新選組局長・近藤勇。
京都市中の治安維持組織を率いる人物ですが、治安維持のため多くの尊王攘夷派の志士や関係者を斬っていたため、京都ばかりでなく江戸でも怖れられる存在でした。
「幕医筆頭であるあなたが、夷敵の医術を用いることは、許されざることではないのか」
「いいえ。これまでの漢方治療では救うことができなかったものが、蘭学を取り入れたことで助けることができているのです」
「ほう。くわしくお聞かせ願いたい」
意気投合した松本良順と近藤勇は、以降の親交を持ち続け、京都を訪れた時には新選組屯所を訪問し、定期的に門弟が回診をするようになりました。
戊辰戦争時。
江戸を救ったのは勝海舟と西郷隆盛の「江戸無血開城」ばかり取り上げられますが、実はこの二人の親交も大きく関係していました。
そこで今回は、「順天堂の祖」を父に持つ、医師・松本良順をご紹介します。
順天堂の父から医学を学んだ青年期
1832年。
蘭医として薬研掘で開業する佐藤泰然に、次男の順之介が誕生しました。
後に彼は、幕医である松本良甫の養子となり、松本良順と名乗るようになります。
実父である佐藤泰然は佐倉藩主・堀田正睦に見出され、蘭医塾である順天堂を開塾。
医師を志すようになった松本良順も順天堂で学びました。
1857年になると、念願だった長崎遊学が実現します。
海軍伝習生として長崎入りし、オランダ医師ポンペにより最先端の医術を学ぶことになったのです。
2年後。
日本初の洋式病院、長崎養成所が開業すると、松本良順は頭取として教頭のポンペを支えました。
診察室だけでなく、手術室や隔離室などもある、近代的な設備が整った施設だったといいます。
「階級・家柄共に門弟中筆頭であり、最も技術堪能、また数々の才能とたゆまない熱意を持っていた」
助手を務めた松本良順について、ポンペはこのように高く評価しています。
オランダへポンペが帰国したことで、松本良順も江戸へと戻り、これまでの実績が評価され、奥詰医師、さらに医学所頭取に任命されます。
新選組局長・近藤勇が松本旅順宅を訪ねたのは、ちょうどこの頃のことでした。
新選組と親しかった幕医時代
医学所頭取の松本良順は、将軍侍医まで務めるほど、蘭医術の腕を認められていました。
1865年。
近藤勇との約束どおり、京都・西本願寺の新選組屯所を訪ねると、多くの隊士たちが横になったままの状態に驚きました。
新選組のほぼ半数が、傷病を理由に隊務を外れていたのです。
この状況を見かねた松本良順は、まず副長・土方歳三に病室や衛生管理について細かく指示を出しました。
松本良順と近藤勇が話をしている一時間ばかりで、土方歳三は指示されたことをすべて整えてしまったといいます。
松本良順は定期的に新選組屯所へ弟子を往診に向かわせ、さらに監察として活動していた山崎丞に医療技術を指導し、新選組の隊医として隊士たちの治療にあたらせました。
幕府の医師であったため、戊辰戦争では軍医として戦地を飛び回っていました。
新選組が江戸へ引き上げてきたとき、「しばらく自分の友人を数人滞在させてもらいたい」と知人に頼み、新選組隊士の隠れ場所を用意します。
そのため、江戸へ引き上げていた新選組と江戸へ攻め込んできた新政府軍の衝突が避けられ、江戸の町が守られました。
明治時代の健康法は海水浴できまり?
幕府の軍医であったため、松本良順は投獄されたまま戊辰戦争の終結をむかえます。
放免されてからは早稲田に病院を設立し、医師として人々の治療にあたりました。
その後、新政府からの要請により、兵部省に出仕して軍医頭となり、さらに初代軍医総監となり、陸軍軍医制度の設立に貢献しました。
初代軍医総監として、日本帝国の軍人はもとい日本国民たちの健康のため、松本良順は「海水浴」を提唱します。
現在、健康法としてのイメージが薄れたものの、海水浴文化は健在です。
その一方で、近藤勇と土方歳三の供養塔を、松本良順は新選組幹部であった永倉新八とともに建立するなど、新選組の復権と供養にも尽力し、1907年に心臓病で亡くなりました。
幕末・明治時代にかけて活躍した、医師・松本良順は、新選組局長・近藤勇の友人であり、新選組の理解者でもあったのです。