はじめに
宮内卿(くないきょう)は鎌倉時代、後鳥羽院の元で活躍した女房歌人です。
その才能は目覚ましく、後鳥羽院の歌壇に召し上げられた時、彼女はまだ15歳くらい。
歌人としての確かな経歴がない中、そうして召し上げられるなんてことは、普通にありえるようなことではありませんでした。
宮内卿は、院が主催した宮廷の和歌行事に多く参加し、活躍します。
彼女が詠んだ『薄く濃き 野辺の緑の 若草に あとまで見ゆる 雪のむら消え』という歌がとても優れていたので、“若草の宮内卿”と呼ばれました。
宮内卿は歌の才に恵まれていました
そして、命を削るほどの努力家でもありました。
今回は「“吐血”の宮内卿」といわれるほど努力家の宮内卿についてみていきます。
宮内卿を取り巻く環境
宮内卿というのは女房名で、彼女の本当の名前ではありません。
文書に残る女房は位がある人ですが、宮内卿はそうではありませんから、彼女の名前は分かりません。
宮内卿は源師光の娘として、この世に生を受けました。
父・師光は名門の生まれでしたが、官人としては出世に恵まれませんでした。
しかし、和歌の世界でも勅撰集に選ばれるような家柄でしたから、師光も歌合に参加したり、私撰集を編纂したりしています。
宮内卿はその父親の存在により、女房歌人を探していた後鳥羽院に見出されることになります。
たった1年で精鋭に仲間入り
1201年の冬に、『仙洞句題五十首』(『仙洞五十首』)という和歌集が成立します。
これは文字通り50首の歌で成る和歌集で、『百人一首』の撰者として知られる藤原定家を含む、選り抜きの歌人たち6名によるものです。
宮内卿はこの6名のうちの一人。
後鳥羽院に召し上げられて僅か1年で、宮内卿はメンバーに選ばれたのです。
この年の夏より、後鳥羽院が準備を進めていた『新古今和歌集』には、『仙洞句題五十首』から12首が撰ばれています。
そのうちの4首が、宮内卿の歌です。
後鳥羽院の歌壇では、院自身を含めて短期間のうちに目覚ましい活躍を遂げる歌人が多くいましたが、宮内卿はその中でも特に優秀な人物であったことが分かります。
1205年に完成した『新古今和歌集』には、宮内卿の歌が15首撰ばれました。
命を削るほどの努力
宮内卿は優れた歌人でしたが、彼女を「天賦の才に恵まれた人である」とは言い切れません。
歌に対する宮内卿の情熱は並々ならぬもので、“血の滲むような”努力どころか、彼女は血を吐くほどの努力家でした。
宮内卿は15歳ほどで後鳥羽院の女房として出仕しますが、活躍したのは僅か4年。
1204年から5年までの間に、20歳前後という若さでこの世を去ってしまうのです。
『無名抄』で、鴨長明が宮内卿について語っています。
『歌合などがある前には、宮内卿は夜も昼も休むことなく歌を考えていたそうだ。
あまりに歌に深く打ち込んで病気になり、一度は死にかけたという。
父親(師光)が「何事も命があってのことだ。どうして病気になるまで根を詰めるのか」と諫めたが、聞かずに無理を重ねたため、とうとう亡くなってしまった』
という内容です。
宮内卿は後鳥羽院の期待も大きい歌人でしたが、周りも才能があり、それに伴ったキャリアもある歌人ばかりでしたから、プレッシャーを感じていたことでしょう。
そういった環境もあり、宮内卿は努力することを惜しまなかったのです。
“吐血の宮内卿”
宮内卿の歌への姿勢については、時代が進んでも語り継がれます。
室町時代前期の『ささめごと』(『心敬私語』)という連歌学書には、『宮内卿は血を吐きしとなり』という記述があります。
江戸時代中期の歌論書『詞林拾葉』にも同じような記述があり、『歌のことを考え、たびたび血を吐いたので、“吐血の宮内卿”と言う』とあります。
吐血については確かか分かりませんが、同時代を生きた鴨長明の記録を見るに、宮内卿がとことん打ち込むタイプの努力家であったことは変わらないでしょう。
どんなことであれ、努力をする、それを続けるということは簡単にできることではありません。
宮内卿という歌人の真の才能とは、“努力”を忘れなかったことかもしれません。