世界中、どこの国の歴史にも「同性愛」の歴史は必ず存在します。
ご多聞に漏れず日本にも「同性愛」の文化は存在していましたが、日本の場合は「衆道」と呼び、ただの同性愛とは似て非なるものとして、独自の発展をしていきました。
一説では空海が持ち込んできた文化と言われており、仏教寺院で流行してそれが武士社会にまで浸透していったと考えられています。
そんな衆道(男色)が盛んになったのが、戦国時代です。
多くの戦国大名や武将が、男同士の関係を結んでいました。
今回は、そんな衆道を嗜む戦国大名たちの変わったラブレターをご紹介します。
甲斐の虎が平謝り!武田信玄が高坂弾正に送ったラブレター
『風林火山』で有名な武田信玄は、武田四天王の一人である高坂弾正と衆道関係にありました。
戦上手で上杉謙信と互角に渡り合っていた信玄ですが、そのイメージを覆すほどの面白いラブレターが存在します。
弥七郎に言い寄ったけど、腹痛いと言われて断られちゃったよ。
今までも弥七郎とは何も無かったよ。 本当だから信じて! 君と仲良くなりたくてこんなに頑張ってるのに、大好きな君に疑われると僕はどうしていいか分からなくなる |
ツンツンと対応する高坂弾正に平謝りをする信玄。
主従関係にあった二人ですが、衆道においては高坂弾正の方か尻に敷いていたのかもしれませんね。
酔った勢いで大失敗?伊達政宗が只野作十郎に送ったラブレター
伊達政宗は戦国大名の中でも史料が非常に豊富に残っています。
それらの史料を見ると、政宗は非常に破天荒で奇抜、冷徹で策略家…そして情に厚く面倒見が良い性格だったと分かります。
それと同時に、色と酒を好んだ英雄でもありました。
正室の愛姫と良い夫婦関係を築きながら多数の側室を抱え、衆道まで嗜む。
まさに、英雄色を好むといったところでしょうか。
政宗の衆道の相手は、只野作十郎という美少年です。
ある日政宗は、宴会の席で酔った勢いで「作十郎、お前は浮気しているだろ」と言いがかりをつけてしまいます。
根も葉もない言いがかりに怒った作十郎は、自分の体を傷付け起請文を送りつけました。
作十郎の怒りに慌てた政宗は、翌日急いで謝罪の手紙を書きました。
昨夜は変な事を言ってごめんね。
でも正直、酔ってたからよく覚えてないんだよね。 私の言葉で体を傷付けるなんて、本当に君を傷付けてしまったんだね。 その場に私がいたら刀に縋り付いてでも止めていたよ。 私も体に傷をつけて誠意を見せたいけど、こんな年寄りがそんなことをしたら皆に笑われちゃうからやめとくわ。 嫌なわけじゃないよ? これからも仲良くして行こうね、見捨てないでね |
自分勝手さがなんとも政宗らしい…そんなラブレターです。
作十郎がやった自傷行為は、相手に自分の誠意を見せる行為として当時はよく行われていました。江戸時代だと遊郭の遊女がやっていたと言われています。
なぜ衆道が流行したのか?
このような男性同士のラブレターは、当時は当たり前のように行われていました。
しかし、そもそもなぜ戦国時代に衆道が流行したのでしょうか?
様々な説がありますが、有力視されているのは「戦場を命を預け合う男たちにとって、より強固な精神的繋がりが必要だったかから」という理由です。
腹を割って話たり、相手との距離をぐっと詰めて仲良くなるために「裸の付き合い」というものをすると良い、と今でも言いますね。
極端な話、そういったすべてを曝け出す関係というが武士の社会で重要だったのではないでしょうか。
もともと衆道は仏教寺院の中で流行したものでしたが、戦国時代になると戦国時代ならではの発展を遂げます。
この頃は美少年が持て囃された時代でもありましたので、敵の中に美少年を潜入させて、敵を誘惑したりして情報を聞き出すという、今のハニートラップのような使い方もされていました。
おわりに
戦国大名と言うと、勇猛果敢な戦略家、知略と計略に長けた野心家、という印象が付き物ですが、こうして彼らが書いたラブレターを見てみるとイメージとはかけ離れたものばかりです。
好意を寄せる相手を怒らせて平謝りしたり、言いがかりをつけられて怒ったり、自分勝手な言い訳をしたり…これって今の私たちと変わらないですね。
衆道のラブレターは、戦いに明け暮れた男たちの意外な姿を見せてくれる貴重な史料です。