<出典:wikipedia>
はじめに
俊成卿女(しゅんぜいきょうじょ)は、後鳥羽院の歌壇で華々しく活躍した女房歌人です。
彼女の祖父は、『千載和歌集』の撰者である藤原俊成。
叔父は『百人一首』の撰者として知られる、藤原定家です。
俊成卿女は、和歌のエリートになりえる遺伝子を持った女性でした。
そして、その才能を見事に開花させた彼女は、後鳥羽院の歌壇で活躍し、新古今時代を代表する歌人の一人として名を残しました。
『仙洞句題五十首』(『仙洞五十首』)の選抜メンバーにもなり、俊成卿女の歌の才能は確かなものでした。
さて、この俊成卿女の叔父・定家は『百人一首』の撰者で、同じく新古今の代表歌人です。
しかし、定家は『百人一首』に俊成卿女の歌を撰びませんでした。
彼女の才能は広く認められていたにも関わらず、定家はどうして『百人一首』に撰ばなかったのでしょうか?
俊成卿女の生まれ
俊成卿女は、1171年頃に生まれたと考えられています。
彼女は俊成卿女=藤原俊成の娘であると名乗っていますが、実際には俊成の孫娘です。
俊成卿女という名前は女房名で、本当の名前ではありません。
俊成卿女の父・盛頼は、1177年6月に起きた鹿ケ谷の陰謀に参加しました。
この時7歳くらいであった俊成卿女は、祖父・俊成に引き取られます。
俊成が彼女を引き取ったのは、その境遇を哀れに思ったこともあるでしょうが、歌の才能を見出したために“養子”とします。
人妻から女房歌人へ
俊成卿女は1192年に、土御門家の御曹司・通具(みちとも)と結婚します。
夫である通具に勧められて、1201年の彼の歌合に“新参”(いままゐり)という名前で歌を出します。
この歌合にお忍びで出席した後鳥羽院は、ぜひ彼女を自分の歌壇に参加させたいと思います。
翌年。
俊成卿女は後鳥羽院に、女房歌人として召し上げられます。
後鳥羽院の歌壇で活躍を重ね、彼女は“俊成卿”として大きく飛躍していきます。
“俊成卿”から“具定母”へ
俊成卿女は、俊成の孫娘でありながらも“娘”と名乗っています。
これは叔父・定家と共に、俊成の“後継者”であるという意味がみえる名前です。
しかし、“俊成卿女”という名前が、突然“具定母”と変わります。
この頃、定家は歌壇の権威者でした。
定家が撰んだ『新勅撰和歌集』には、彼の歌の主義や理論による、俊成卿女の批判があります。
そこには、自分の父・俊成の“後継者”とは自分だけだ、という思いもあったでしょう。
定家が亡くなった後で、“具定母”から“俊成卿女”へ、また名前が戻っていることからも、名前を変えたのは俊成卿女の意志ではなさそうです。
俊成卿女は『新勅撰和歌集』の他にも勅撰集に撰ばれていますが、名前が“具定母”となっているのは『新勅撰和歌集』だけです。
好みの問題?それとも……?
誰もが認める才能の持ち主だった俊成卿女。
しかし、定家は『百人一首』には撰びませんでした。
俊成卿女ほどの歌人が撰ばれなかったのは、とても不思議です。
『百人一首』には、俊成卿女ほど有名とは言えない歌人も撰ばれているのに、一体なぜでしょう?
もちろん撰ばれた歌は、とても優れたものばかり。
それでも、俊成卿女が撰ばれないというのは「なぜ?」と思われることなのです。
撰ばれた歌は、多くある優れた歌の中でも、より定家の好みに合ったのでしょう。
ですから、俊成卿女の作品が好みではなかった、とすればそれまでかもしれません。
しかし、“俊成卿女”という名前についての出来事を考えると、本当にそれだけ……?とも思えてきます。
定家の真意については、想像が膨らむところです。
晩年の“俊成卿女”
俊成卿女は、50歳くらいで出仕を辞めたと思われますが、その前後のことは不明です。
その後、隠棲していた播磨国(現在の兵庫県)の越部で、彼女は80年あまりの人生に幕を閉じます。
歌人として生き抜いた俊成卿女は、およそ750首を残しました。
私たちに最も馴染みのある『百人一首』には撰ばれなかったとしても、彼女が素晴らしい歌人であったことは間違いないでしょう。