<出典:wikipedia>
はじめに
聖なる経典を求めるため、天竺(てんじく)に向けて過酷な旅を続ける僧侶と三人の妖怪の物語、「西遊記」。
長く人々に愛されている物語ですが、そのモデルになったのは「玄奘(げんじょう)三蔵」という実在の僧侶の旅の記録です。
俗に「三蔵法師」と呼ばれていますが、この「三蔵」とはもともとサンスクリット語などで書かれていた経典を翻訳する「訳経僧」を指す尊称とされています。
「経蔵(きょうぞう)」「律蔵(りつぞう)」「論蔵(ろんぞう)」の三つに精通した僧侶、という意味であり、ひいては仏典の総称を三蔵といいます。
もっとも著名なのは玄奘ですが、ほかにも訳経僧たる三蔵法師が多数存在していました。
その中でもたった一人、日本人にして「三蔵法師」の称号を与えられた僧侶がいました。
その名は霊仙(りょうせん)。
悲劇の僧としても知られる、霊仙三蔵についてご紹介したいと思います。
霊仙とは
霊仙は平安時代前期の法相宗の僧侶で、「南都六宗」と称された奈良仏教を学びました。
生まれは近江(現在の滋賀県)とも阿波(同:徳島県)ともいわれ定かではありませんが、法相宗大本山・興福寺にて修行に励んでいました。
霊仙が唐へと渡ったのは延暦23年(804年)。
第18次遣唐使のメンバーとして選抜されてのことでした。
同期には最澄や空海、橘逸勢(たちばな の はやなり)らそうそうたる顔ぶれが並び、いかに霊仙の能力が卓越していたかがうかがわれます。
霊仙はサンスクリット語経典の漢訳や、外国僧の翻訳などを通して通訳者・翻訳者としての能力を遺憾なく発揮します。
そして唐の元号での宝暦2年(811年)。
ついに「三蔵法師」の称号を授けられます。
歴史上、日本人で三蔵の号を得たのは霊仙ただ一人という偉業です。
大元帥法を日本に伝えた
当時の皇帝、憲宗(けんそう)は熱心な仏教の信者であり、霊仙は寵愛を受けて秘法中の秘法、「大元帥法」を学ぶことを許されます。
この法は、大元帥明王という仏を本尊として国家鎮護や怨敵調伏などを行うという秘術であり、宗教的な国家防衛に関する機密事項でもありました。
しかし、この秘法が日本に漏洩することを防ぐため、霊仙は帰国を禁じられてしまいます。
事実上の軟禁状態となり、ついに日本の地を踏むことなく唐で没した霊仙でしたが、「大元帥法」を祖国に伝えるべく壮絶な方法で弟子に託しました。
表立って大元帥法を伝授することはできないため、不自由な生活のなかでその姿を記録するため、なんと己の手の皮を剥ぎ、そこに本尊たる大元帥明王の尊像を記したと伝わっています。
霊仙の決死の思いは彼の死後、弟子を経由して後代の入唐僧に受け継がれ、やがて日本にその秘法が知られることとなりました。