2017年– date –
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室町時代|1335年 足利尊氏の反乱
1335年。 足利尊氏は関東で兵を起こした北条時行を討つために鎌倉へ向かいます。 もともと源頼朝のようになりたいと考えていた尊氏は、朝廷に征夷大将軍の位と東国の管領権を要求。 しかし、平安時代を理想とする後醍醐天皇には受け入れられません。 そこ... -
室町時代|1334年 建武の新政
源頼朝が鎌倉幕府を開いてから140年ぶりに政権が朝廷に戻ります。 宋学を学んでいた後醍醐天皇は、政治を武士に任せるのではなく、あくまでも天皇みずからが「武」を握るという形を作ろうとします。 ところが、後醍醐天皇の恩賞の与え方が恣意的で、天皇の... -
鎌倉時代|1331年 元弘の乱(げんこうのらん)
1324年。 後醍醐天皇の謀反計画が幕府に知られると、側近の日野資朝(ひのすけとも)たちが捕えられてしまいます。 しかし、このときは、天皇はいっさい関わりないという弁明により、後醍醐天皇には何の処分もありませんでした。 再び倒幕計画。元弘の乱が... -
鎌倉時代|1318年 後醍醐天皇が即位する
第88代、後嵯峨天皇が私情により第一皇子の後深草天皇を退位させ、第二皇子の恒人親王(のちに亀山天皇)を皇位につけたことから天皇家の相続問題が起こります。 そのため、鎌倉幕府主導で後深草系と亀山系(恒人親王系)を交互に皇位につけることにしまし... -
鎌倉時代|1274年・1281年 元寇
承久の乱により、天皇の皇位継承も武士に左右されるようになり、当時の貴族たちの中には、世も末だと考える人も少なくありませんでした。 そんな中、現在のモンゴル・中国あたりに築かれた国、元が2度にわたって攻めてきます。 これが元寇です。 12... -
鎌倉時代|1232年 御成敗式目の制定
源頼朝は宮廷に対しては従順な態度をとって衝突を避けていました。 1185年に義経追討の名目で守護・地頭を設置したのは、実質的には日本支配をしていながら、公家を立ててのことだったのです。 そして、問題が起こるたびに頼朝自身が従来の慣習を参考に判... -
鎌倉時代|1221年 承久の乱
承久の乱は、鎌倉幕府に対して不満を抱いていた後鳥羽上皇が幕府討伐の兵をあげるが敗れてしまう戦い。 この戦いで国の体質に変化があらわれます。 国の体質はそれ以前に二回変化しています。 一回目は、第三十一代の用明天皇が仏教を使いはじめた... -
鎌倉時代|1219年 北条氏の執権政治
政治的には最も偉い役職の天皇。 しかし、実際に力を持っているのは藤原氏や鎌倉幕府、江戸幕府に日本政府。 このように一見偉そうだけど実権は何もないという状況が、日本では約二千年続いています。 特にすごかったのが、北条氏の執権政治。 天皇... -
鎌倉時代|1219年 源氏政権の終わり
数々の武功を立て、ほとんど一人で平家を倒したと噂された源義経は京都と宮廷で非常に人気がありました。 後白河法皇は義経を従五位下にして判官の位を与えます。 しかし、兄の頼朝はこれを快く思わず、自分を脅かす存在であると感じました。 壇ノ... -
平安時代|1185年 平家滅亡
源頼朝に代わって京都に攻め込んだのは、信濃で挙兵した従弟の源義仲でした。 1183年。 十万ほどの平家の大軍は、越中と加賀の国境で木端微塵に打ち砕かれます。 これが、倶利伽羅峠の戦い。 義仲が数百の牛の角に松明をつけて敵軍を奇襲しまし...