<出典:wikipedia>
1868年1月1日——刀の柄の感触を確かめ、暗闇の中、陸奥宗光は息をひそめます。
京都・油小路にある旅籠の様子を探りながら、陸奥宗光が率いる海援隊・陸援隊の隊士たちは、天満屋を襲撃する機会を狙っていました。
天満屋に滞在している紀州藩の重臣を殺害し、近江屋で暗殺された海援隊隊長・坂本龍馬と陸援隊隊長・中岡慎太郎の仇を取るためです。
しかし、紀州藩の重臣が滞在している天満屋は、治安維持組織の新選組に警護を固められています。
陸奥宗光は客を装って天満屋の表門を叩きました。
海援隊士の陸奥宗光に、剣の覚えはありません。
しかし、天満屋の屋敷内へ案内された陸奥宗光は、新選組隊士たちとの壮絶な斬り合いに身を投じます。
この天満屋事件という過激な行動に陸奥宗光を駆り立てたものは、坂本龍馬への強い想いからでした。
果たして、陸奥宗光と坂本龍馬は、どのような関係だったのでしょう。
今回は、後に「カミソリ大臣」と呼ばれることになる陸奥宗光と、坂本龍馬の関係をクローズアップします。
陸奥宗光、坂本龍馬に出会うまで
1844年。
紀州藩重臣の伊達宗広の六男として産まれた陸奥宗光は、もともと伊達小次郎という名前でした。
しかし紀州藩内の政治抗争に負け、父の伊達宗政が流罪となると、9歳の陸奥宗光は家族とともに紀州藩内を転々とする苦しい生活を送ることになります。
陸奥宗光は14歳になると、儒学者になる為、単身江戸に出ます。
しかし江戸での生活も厳しいもので、高野山江戸出張所の寺男、漢方医のアルバイト、私塾の住込みなど、勉学と同時に生計を立てる為に様々な仕事をしていました。
江戸に出てから3年。
伊達家が紀州藩に復帰したことで、江戸にいた陸奥宗光も名門の昌平坂学問所に入りますが、父と兄が紀州藩を脱藩し、京都で尊王攘夷運動を始めたため、後を追って京都へ向かいました。
一方、「紀州伊達家が脱藩して尊王攘夷運動のために京都入りしたこと」を知った坂本龍馬は、さっそく親交を持つため伊達宗広のもとを訪れていました。
そして京都の家族に会いに来た陸奥宗光は、坂本龍馬と出会いました。
坂本龍馬に「陸奥大先生」とよばれた陸奥宗光
紀伊伊達家の出身という境遇のためか、陸奥宗光は学問もでき利発な青年でした。
しかし、人を見下したような物言いもしょっちゅうな傍若無人な性格で、坂本龍馬に紹介されて入った海軍操練所でもなかなか周囲と馴染めませんでした。
そんな陸奥宗光にとって、坂本龍馬は唯一の理解者でした。
海軍操練所が閉鎖されても、陸奥宗光は坂本龍馬と共に行動し、長崎では亀山社中に加わります。
この時、坂本龍馬は豪商の大浦慶という女性から3000両を借り、借金のかたに陸奥宗光とられるという出来事が起こりました。
大浦慶は「陸奥さんにはお風呂で背中を流させた」と後に話しています。
陸奥宗光は坂本龍馬の為なら体を張ることもいとわなかったのです。
海援隊で測量官を務めながら、陸奥宗光は海援隊の経営プランを坂本龍馬に提出しました。
これが高く評価され、海援隊の経営を任されるようになると同時に、オランダ商人ハットマンからライフル銃の購入という大きな仕事も成功させました。
そんな陸奥宗光へ充てた坂本龍馬の手紙には、「陸奥大先生へ」と書かれている程で、その才能を評価し、海援隊士として信頼を置き、そしてとても可愛がっていたことがわかります。
坂本龍馬の暗殺から天満屋事件・その後の陸奥宗光
1867年12月10日、坂本龍馬暗殺当夜。
現場となった近江屋近くに位置する海援隊本部に詰めていた陸奥宗光は、関係者の中でまっさきに近江屋へ駆けつけます。
そして、すでに絶命した坂本龍馬と対面します。
海援隊・陸援隊の隊士たちは、いろは丸号事件で多額の賠償金を支払わされた紀州藩による犯行ではないかと考えるようになり、陸奥宗光が天満屋襲撃を画策します。
1868年1月1日。
天満屋を襲撃した陸奥宗光たちは、敵味方の区別もつかない暗闇の中で奮闘し、ターゲットの紀州藩重臣に手傷を負わせることに成功します。
しかし、戦闘のプロである新選組を相手に苦戦を強いられ、機転を利かせた新選組隊士が「討ち取ったぞ!」と声を上げると、陸奥宗光たちは撤収してしまいました。
「融通変化の才で坂本龍馬の右に出る者はいない。自由自自な人物で、大空を翔る奔馬だ」
カミソリ大臣と呼ばれ、明治政府において外交面で大きな功績を残した陸奥宗光は、後に坂本龍馬をこのように評し、海援隊時代に坂本龍馬に学んだことを、日本の為に活かしたのでした。