<出典:wikipedia>
はじめに
阿仏尼(あぶつに)は、鎌倉時代中期の女流歌人。『十六夜日記』という日記の作者です。
『十六夜日記』は100首以上の和歌を含んだ日記で、京都から鎌倉までの紀行、鎌倉滞在中のことなどが描かれています。
さて、阿仏尼がこの『十六夜日記』を書いたのには、きっかけがあります。
それは義理の息子・為氏との相続争いでした。
阿仏尼とは?
阿仏尼の確かな出生は分かりませんが、平度繁(たいらののりしげ)の養女となっています。
彼女は、安嘉門院(あんかもんいん)に女房として仕えていました。
この宮仕えをしている時、ある貴族に恋をしますが……失恋。
なんと出家してしまいます。
それから遠江に行きますが、再び都に。
その後また都を出て、今度は奈良の法華寺に入り、慶政上人のところに身を寄せます。
なんとも激しく波のある人生ですが、1253年頃に、阿仏尼は彼女のその後の運命を大きく変える人物と出会います。
和歌の名門・藤原家の嫡男である、藤原為家です。
彼の父親はあの藤原定家で、為家も『続後撰和歌集』、『続古今和歌集』の撰者として活躍した歌人です。
阿仏尼は為家の側室となって、為相と為守の二男の母となります。
さて、為家には先妻がいて、その女性との間にも三人の男の子がいました。
1275年に為家が亡くなると――この義理の息子・長男の為氏と阿仏尼の、8年にも及ぶ大喧嘩の火蓋が切られたのです。
京から鎌倉へ
夫・為家は、亡くなる前に“譲り状”(遺言状)を残しました。
播磨国(現在の兵庫県)の細川荘を、阿仏尼との間に生まれた子・為相に譲るという内容のものです。
本来なら、先妻の長男・為氏が継ぐべきものでしたが、為氏はこの時54歳くらいで、為相はまだ16歳。
「それなら為相に……」と思って為家は“譲り状”を残したのでしょうが、「はい、分かりました」と譲る為氏ではありませんでした。
当時は“譲り状”の中でも、一番最後に書かれたものが守られる時代。
しかし、納得のいかない為氏は、細川荘を譲ろうとはしません。
対する阿仏尼も、夫亡き後の生活のため、息子・為相のためには、細川荘を諦めるわけにはいきません。
そこで、阿仏尼は決意します。
「細川荘を返してもらうために、裁判を起こそう」と。
こうして、1279年10月16日、阿仏尼は京を出発します。
訴訟のために、遠い鎌倉の地を目指して……。
この旅のことを、和歌を含めて記した日記が『十六夜日記』です。
つまり、彼女が『十六夜日記』を書くことになったのは、義理の息子・為氏との相続争いがきっかけだったのでした。
訴訟の結果は、果たして……?!
訴訟の結果は、阿仏尼の勝訴でした。
しかし、彼女はこの結果を知ることなく、京を旅立った4年後……1283年に亡くなってしまいました。
裁判の結果が出たのは、1289年のこと。
なんと、裁決までに8年もの長い月日がかかったのです……。
『十六夜日記』が遺したもの
『十六夜日記』には、100首以上の和歌が含まれています。
阿仏尼の歌は、『続古今和歌集』などの勅撰集に48首も選ばれ、歌人としてもその名を残しました。
『十六夜日記』の他にも、歌論書として『夜の鶴』を書いています。
彼女の夫・為家の生まれた藤原家は、和歌の名門で為家もエリート。
しかし、阿仏尼自身も才能のある女性だったのです。
そんな阿仏尼が遺した『十六夜日記』は、彼女の貫いた勝訴への信念の証。
それはまさに、彼女自身が“生きた証”と言えるのではないでしょうか?