<出典:wikipedia>
はじめに
歴史雑学には様々な種類がありますが、多くの人の興味をそそる雑学は「歴史ミステリー」でしょう。
挙げればキリが無いほどたくさんありますが、そんな歴史ミステリ―の中でも「源義経=チンギスハン説」は、古くから語り継がれている日本人にはお馴染みの歴史ミステリ―です。
ただ、近年ではミステリーというよりもトンデモ学説のような扱いを受けていますね。
ここでは、仮説の真偽ではなく、この説の変遷と背景についてご紹介していきます。
源義経=チンギスハン説とは何か
まず簡単に、この説がどんなものかを説明していきましょう。
「源義経=チンギスハン説」とは、その名の通り「平泉で死んだとされている義経が、実は死なずに生き延びて、蝦夷へ逃げて海を渡り、チンギスハンとしてモンゴル帝国を築いた」というものです。
確かにどちらも、軍事的天才であり英雄であることに違いはありませんが、なぜこの二人が結び付けられるのでしょうか。実は意外にも多くの根拠が存在するのです。
・義経とチンギスハンの紋章が同じ笹竜胆
・チンギスハンはニロン族の出身で、これは「日本」が訛ったもの
・義経が死んだとされるのが1189年。半生が不明のチンギスハンが歴史上に登場するのは1206年なので、矛盾が無い
・チンギスハンは義経が使ったような軍事作戦を採っている
以上が根拠とされるものの一部です。
日本史の中でも義経は人気のある人物ですが、黄瀬川の戦いで兄の頼朝と再会するまで何をやっていたのかはっきりしないところが多く、それ以前の有名エピソードは歌舞伎や物語で創作されて広まったものばかりです。
チンギスハンも世界史の有名人物ですが、よく分からない部分が多い人物でもあります。
「有名なのによく分からない」というのも二人の共通点と言えるでしょう。
義経=チンギスハン説はいつから広まったのか
義経がチンギスハンと結びつく前に、まず広まったのが「義経生存説」です。
初めて「義経生存説」が世に出て来たのは、1670年です。
幕府の命令で『本朝通鑑』という歴史書を作っていた林羅山が、この本の中で「源義経は衣川で死なず蝦夷地に渡った。蝦夷には今も義経の血を引いたものがいる」と書いています。
また、水戸黄門で有名な水戸光圀も蝦夷地の調査報告書に「義経はオキクルミ(農耕や狩猟の神)としてアイヌ人に崇められている」「蝦夷地には義経や弁慶にまつわる地名が多い」と記述しています。
同じようなことを新井白石も言っており、1600年代後半には「義経生存説」は知識人の間でちょっとしたブームになっていたようです。
1700年代に入ってからは近松門左衛門が、義経が衣川で死なずに蝦夷地に渡ったという内容の脚本を書いて人気になり、「義経生存説」はメジャー化しました。
「義経=チンギスハン説」が初めて登場するのは、幕末です。
なんとこの説はかの有名な外国人医師シーボルトによって唱えられたものでした。
シーボルトは著書『日本』の中で「義経は中国大陸に渡ってチンギスハンになった」という説を、様々な点から検証しています。
そして1924年。
小谷部全一郎の著書『成吉思汗ハ源義経也』がベストセラーとなり、一般人にも知れ渡るようなポピュラーな歴史ミステリーになっていきました。
なぜ義経伝説が生まれたのか
では、なぜこのような説がブームになり、大々的に広まっていったのでしょうか。
義経が悲劇のヒーローだからというだけでなく、その背後にはとても現実的な意図があったと考えられています。
「義経生存説」ブームが起きた江戸時代。
当時の幕府は、蝦夷地の支配を強めると同時に、ロシア帝国からの圧力も無視できなくなってきたので何らかの対策をしたいと思っていました。
その対策として、「アイヌの神は日本の義経だ」という伝説を意図的に広めて同化政策を進め、ロシアにも「蝦夷地は日本の領土」と言えるようにしたのではないでしょうか。
「義経=チンギスハン説」は日本がアジアへの支配を強めたい時期にブームになっています。
チンギスハンの築いたモンゴル帝国は、とても広大な領土を持ち、長い間アジアのみならずヨーロッパも脅かした大帝国です。
このような偉大な支配者が実は義経だった!となれば、士気も上がり大陸進出の大義名分も押さえられます。
まとめ
これほどまで有名な「義経=チンギスハン説」ですが、歴史的な証明は難しく、ブームがあった当時からトンデモ学説扱いでした。
このような説が今も色褪せず私たちを魅了し続けるのは、義経という悲劇のヒーローの魅力をより一層際立たせているからでしょう。
日本の歴史の中には義経に限らず、様々な人物の生存説があります。
有名なものだと真田信繁、明智光秀ですが、義経と共通しているのは「悲劇性」です。
華々しく戦い散っていった英雄に「どこかで生き延びていてほしい」と願うのは、日本人ならではですね。