<出典:wikipedia>
はじめに
ときは幕末。
蛤御門の変で京都市内に延焼した火災が原因で、鴨川のほとりには多くの市民が避難生活をしていました。
その避難民に乞食として紛れていたのが、尊王攘夷派のリーダー・長州藩士・桂小五郎でした。
「逃げの小五郎」のあだ名のとおり、乞食になりすまして炊き出しを食べ、船頭に扮して鴨川を移動し、町人に紛れて商売もすれば、女装までして京都市中を逃げ続けていたのです。
今回は尊王攘夷派からも幕府勢力からも「逃げの小五郎と」と後ろ指を指されながら、それでも逃げ続けた男、桂小五郎をご紹介します。
逃げの小五郎は剣の達人だった!
逃げの小五郎と揶揄された桂小五郎でしたが、実は面識があった新選組局長・近藤勇に「桂小五郎は気迫が凄まじく、手も足も出なかった」と言わせるほどの剣の達人でした。
1833年。
桂小五郎は長州藩の藩医を務める由緒正しい家に生まれますが、幼少時から体弱く、家督を継ぐのは難しいだろうと思れていました。
そのため、父親は桂小五郎を武家に養子に出します。
10代になると、桂小五郎は心身ともに健康な男子に成長します。
藩主による試問では、孟子の解説を行い二度も褒賞を受けるほど高い評価を受け、世間から注目を集めるようになります。
16歳になると、吉田松陰から山鹿流兵学を学び、「事のなす才あり」と評価され、師弟関係と同時に親友関係を結びます。
地元の萩を出て剣術修行のために江戸に私費遊学した桂小五郎は、19歳で江戸三大道場として知られる神道無念流の練兵館に入門。
1年後には免許皆伝となり塾頭を任されるまでになります。
幕末の江戸で、桂小五郎は剣豪として名の知れた存在となり、新撰組局長・近藤勇もそのことをよく知っていました。
逃げの小五郎は変装の達人!逃げる為なら何でもした!
京都留守役となった桂小五郎は、尊王攘夷思想を掲げる志士や公卿と交流し、長州藩の尊王攘夷派勢力のリーダーとして活躍するようになります。
1862年には過激な尊王攘夷派の志士たちを取り締まるため、京都守護職が設置され、1863年には新選組が活動を開始します。
京都守護職が設置された段階から、桂小五郎は身辺を狙われる立場になり、新選組や京都見廻組、奉行所の捕り方から逃げ回ることになります。
桂小五郎が乞食に変装した時は、避難民が集まる鴨川沿いですっかり溶け込み、周りの人間は誰ひとり乞食であることを疑いませんでした。
持ち物から真っ白なふんどしが見つかったことで、ようやくあやしまれたというエピソードまで残っています。
京都での潜伏も限界となり、桂小五郎は丹波地方の出石に潜伏先を移します。
地元の人と碁を打ったり、子供たちと遊んだりしながらも、幕府の追ってから逃れるため潜伏先を7回も変えていきます。
潜伏の長期化を覚悟した桂小五郎。
今度は商人・広江孝助に扮し、出石に店を構え荒物業を営みます。
変装しながら京都市中に潜伏していた桂小五郎ですが、禁門の変の直後、京都市中の警備を強化していた捜査網に引っかかり、会津藩兵に捕らえられたことがありました。
会津藩邸に身柄を移されることになった桂小五郎。
会津藩兵に連れられて寺町通を歩いているところ、突然、
「トイレが我慢できない!!!!」
と騒ぎだします。
しかたがないので数人の見張りをつけて近くのトイレへ駆け込みますが、桂小五郎は袴を下して藩兵が目をそらした隙に、地面を這うように逃げ出しました。
逃げの小五郎も明治政府では逃げなかった
出石で荒物業を営みながら、桂小五郎はこのまま商人として暮らしていくのも悪くはないと思うようになります。
出石に潜伏して7ヶ月が過ぎた頃、京都に置いて来た恋人の幾松が訪ねてきます。
三条大橋のたもとで乞食に扮していた時には握り飯を届け、新選組に追われている時にはかくまい、幾松は何度も桂小五郎を助けていました。
幾松は桂小五郎に会うと小五郎を叱りつけ、長州藩に戻るように言います。
長州藩に戻った桂小五郎は、薩長同盟を締結し倒幕を推し進め、明治政府では木戸孝允と名前を改め、日本の近代化に大きく貢献します。
逃げの小五郎と後ろ指をさされた桂小五郎も、明治政府では逃げずに戦ったのです。