<出典:wikipedia>
古高 俊太郎 ふるたか しゅんたろう
文政12年4月6日(1829年5月8日) – 元治元年7月20日(1864年8月21日)
はじめに
時代は1864年、梅雨の頃。
高瀬川には荷物を積んだ小舟がたくさん行き交い、船頭が手際よく木屋町通に建ち並ぶ商屋や料亭、旅籠などへ、船頭が手際よく荷物を運び入れていきます。
「枡屋(ますや)」の看板を掲げる商屋にも、荷物が運び込まれていきます。
筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋は、小道具や馬具を扱っており、跡を継いだ枡屋喜右衛門が店を取り仕切っていました。
枡屋喜右衛門は奥間まで荷物を運び、ようやく中身を確認しました。
中身は小道具や馬具などではなく、銃や弾薬などの武器でした。
木屋町には土佐藩、長州藩の京都藩邸があり、あたりの料亭は尊王攘夷派の志士たちの密会や隠れ家として利用されていました。
この枡谷喜右衛門も、小道具や馬具を扱う商人を名乗っていますが、裏では尊王攘夷派に加担し、情報収集や武具の調達、さらに尊王攘夷派の志士と公家との連絡役と、重要な役割を担っていたのです。
梅雨が明け、祇園祭の宵山を控えた7月8日。
この枡谷をマークしていた新選組によって家宅捜索が行われ、大量の武器弾薬や尊王攘夷派の志士たちと交わされた血判状が押収されるとともに、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎は新選組屯所へ連行されました。
新選組屯所で激しい拷問を受ける古高俊太郎ですが、一方で尊王攘夷派の志士たちは、古高俊太郎の奪還を計画する為、三条木屋町の池田屋で会合を開くことを決めました。
20人程の尊王攘夷派の志士が三条木屋町の旅籠「池田屋」に集まりました。
そして、会合中に新選組に襲撃され、その多くが犠牲となりました。
それが有名な「池田屋事件」です。
今回は池田屋事件の発端となった枡谷喜右衛門こと古高俊太郎を紹介します。
古高俊太郎の生い立ち
滋賀県守山市出身の古高俊太郎は、1829年、大津代官所の手代を勤める父・古高周蔵のもとに誕生しました。
しかし、代官といっても収入は少なく、赤ん坊の時には福寿院(守山市内の寺院)にいたこともあったというほど、幼い頃の古高俊太郎の生活は苦しいものでした。
その後、父の古高周蔵が京都・山科の門跡寺院「毘沙門堂」の非常勤職員として勤務することになり、一家は滋賀から京都へ移住します。
毘沙門堂には尊王攘夷派の勤王志士たちが多く出入りしていました。
古高俊太郎は尊王攘夷思想に感化され、さらに国学・漢学・儒学など、様々な学問や教養を学ぶ機会を手に入れます。
そして、庶民の身分でありながら志士たちと活発に議論を交わすまでに成長していきました。
父の跡目を継ぎ30歳で毘沙門堂の家士となってからは、才能と人柄を評価され、名実ともに尊王攘夷派の盟主として活動を行うようになりました。
古高俊太郎は公家にまでパイプがあった
枡屋喜右衛門として商人を装っていた古高俊太郎ですが、尊王攘夷派のメンバーにとって朝廷工作には必要不可欠な存在でした。
母親の実家が、公家の名門「広橋家」の家来で、出自に公家とのつながりがありました。
そのうえ、父の勤務先であった山科の毘沙門堂の門跡(住職)が、有栖川宮家の慈性法親王であった為、朝廷関係者から尊王攘夷派の志士たちが上がり込み、集会所のような役割となっていました。
そのため、毘沙門堂に出入りしていた古高俊太郎は、おのずと尊王攘夷派の公家とのパイプができていたのです。
古高俊太郎のパイプは公家だけでなく、長州藩の中枢にまで及んでいました。
古高俊太郎の祖父・松本多門という人物の後妻「里」が、長州藩主毛利家の流れをくむ徳山藩主の側室だったのです。
長州藩にこの事実を文書にして提出すると、長州藩は事実確認をとり、古高俊太郎に対して強い信頼を寄せるようになります。
そして、朝廷工作を任せるようになり、その活動をサポートしはじめます。
長州藩の中枢とつながりを持った古高俊太郎は、長州藩を代表する尊王攘夷派の桂小五郎や高杉晋作と知己を持つようになり、どんどん朝廷工作を推し進めていくようになります。
池田屋前夜・枡屋喜右衛門の正体がバレる
枡屋の番頭の密告で、枡屋喜右衛門の正体が新選組にリークされました。
1864年7月8日の早朝。
新選組の壬生屯所に連行された古高俊太郎は、前川邸の蔵で想像も絶する拷問を受けます。
諸説はあるものの、尊王攘夷派の志士たちだけでなく、関与している公家にまで影響が及ぶことから、古高俊太郎は何一つしゃべらなかったと言われています。
その最期はあまり知られてはいませんが、
8月21日の禁門の変での出火が入牢していた六角獄舎のすぐ傍まで迫った為、
判決が出ていないのにも関わらず、火災に乗じて囚人たちが逃亡しないよう役人たちの手によって斬首されました。
池田屋事件の起因となった古高俊太郎は、尊王攘夷派の一員として武器を仕入れていた商人というイメージが先行していますが、実は京都の尊王攘夷派の中心的人物だったのです。