<出典:wikipedia>
北条 泰時 ほうじょう やすとき
1183年~1242年
北条泰時は1232年に御成敗式目を制定した人物です。
武家の基本法典を制定した功績は非常に大きなものですが、北条泰時とは、どんな人物だったのでしょうか?
泰時(金剛)の子ども時代
1183年。
北条泰時は、北条義時の嫡男として生まれます。
当時の名は金剛。
あるとき、10歳になった金剛が散歩をしていると、多賀重行が乗馬で通りかかります。
多賀重行は下馬の礼(相手に敬意を表して馬から降りること)をしませんでした。
これを聞いた源頼朝は、「北条家の金剛はおまえたちとは身分が違う。まだ幼いからと侮って礼儀を欠くとはどういうつもりか」と重行を叱ります。
「そんなことはありません。金剛殿にお聞き下さい」と重行。
そこで、頼朝が金剛に尋ねると、「重行は欠礼していない」と返答がきます。
頼朝は、重行を庇う金剛の奥ゆかしさを褒め、愛用した剣を与えます。
一方、重行には「嘘を言って罪を免れようとする性根が気に食わない」と言って怒り、所領を没収します。
これが現在残っている泰時に関する最初のエピソードです。(『吾妻鏡』より)
19歳で結婚した泰時(頼時)
1194年。
12歳になった金剛は、元服します。
この時、頼朝は自ら烏帽子親(仮の親)となり、金剛に“頼時”と名乗らせます。
頼朝は更に、御家人の中でも最有力者であった三浦義澄に、孫娘を妻として与えるようにと命じます。
頼朝が亡くなった3年後の1202年。
頼時は、三浦義村の娘と結婚します。
ちなみに、この結婚が影響したためか、1213年に起こる和田合戦では、三浦義村は和田義盛を裏切りました。
源実朝の学問所番となる
1203年。
実朝が鎌倉幕府三代目将軍になります。
二代目の時にすでに将軍の実権は弱くなっていましたが、実朝のときはそれ以上。
実権が弱くなり、執権の力が強くなってしまいます。
そのため実朝は、政治よりも学芸の道を好んで進むようになりました。
1213年。
学芸の道を好むようになった実朝は、自分に近い御家人18人を学問所番として、6人ずつ交代で仕えさせました。
学問所番とは、学問に優れた御家人に和漢の故事を語らせるものです。
その道に心得があったのでしょう。泰時はその筆頭に抜擢されました。
武士としての泰時、初代六波羅探題に就任
1221年。
後鳥羽上皇が幕府を倒そうと挙兵します。
泰時はこの時、父・義時に幕府軍の大将を任されます。
後鳥羽上皇のもとには、北面の武士、西面の武士や反北条氏が集まりましたが、大多数の武士は幕府側に!!
圧倒的な兵力差で幕府軍は勝利し、京都を占拠します。
この承久の乱の戦後処置を済ませた泰時は、そのまま京都に残り、京都市中の警備をはじめます。(六波羅探題)
その後、六波羅探題は、執権に次ぐ要職として北条氏の有力者が任命されるようになりました。
画期的な制度。御成敗式目の効果とは
執権となった泰時の最も大きな功績といえば、御成敗式目(貞永式目)。の制定です
当時、もめごとの解決は、道理と呼ばれる慣習や道徳によって判断されていました。
そのため、地域によって違ったり、矛盾していたりと整合性がなく、所領問題の解決は難しいものでした。
そこで、泰時は先例や道理に基づいた武家社会の掟や、裁判の基準を法文化。(御成敗式目の制定)
あまり教養のない武士たちにも分かるよう易しい文章で書き表します。
この文章は、幕府の勢力と共に全国的に広がり、公家や寺社、一般の人々にまで大きな影響を与えました。