男?女?小野妹子が実は花がよく似合う女性だった説。

<出典:wikipedia

はじめに

六角形のお堂を持つことから、京都の人には「六角さん」と親しまれている「頂法寺」は、
1430年前に聖徳太子によって建立されました。

頂法寺では、聖徳太子の菩提を弔うため、出家した小野妹子が法頂寺の初代住職となりました。

 

当時、日本には死者に花を捧げるという風習はありませんでした。

しかし、遣隋使として大陸に派遣された経験がある小野妹子は、死者に花を手向けるという隋の風習に倣い、日々仏前に花を捧げました。

以来、法頂寺の住職は、聖徳太子自らが安置した護持仏「如意輪観音像」に花を供えるようになり、それが室町時代になると華道に発展した為、現在では法頂寺は「いけばな発祥の地」と呼ばれています。

 

遣隋使として隋の皇帝に謁見し、聖徳太子からの国書を渡す大役を果たした小野妹子。

小学校の歴史の教科書にも登場する有名な人物ではありますが、聖徳太子のために出家し花を捧げ続けたという後世はほとんど知られていません。

また、多くの人は、小野妹子という名前から最初は女性だと誤解し、のちに男性であることを知ると思います。

しかし、様々な文献や伝承を調査した結果、「小野妹子女性説」も、決して的外れではなく、説得力があったことが分かりました。

今回は、小野妹子の女性説について解説します。

小野妹子はどんな人?

小野妹子について、
飛鳥時代の人物であること、滋賀県の豪族出身とされていることは明らかとされていますが、生没年は現在でもわかっていません。

大和朝廷で働くようになった小野妹子は、朝廷内では家柄が低く、実力があったのにもかかわらず地位は低いままでした。

603年に聖徳太子が「冠位十二階」を制定したことで、実力主義が徹底され、小野妹子は自らの実力で出世し、政治の中心へと躍り出ました。

聖徳太子が派遣した遣隋使となり活躍

遣隋使の派遣が決定すると、小野妹子は倭国の代表に抜擢されました。

目的は、聖徳太子の国書を渡し、倭国が大国の隋と対等な関係を結び、隋の進んだ文化や技術を日本へ持ち帰ること。

607年。

遣隋使が洛陽に到着し、小野妹子は時の皇帝・煬帝と謁見します。

そして有名な「日出ずる処の天子、日の沈む処の天子へ手紙を送る……」という書き出しの国書を渡すことに成功しますが、この内容に煬帝は激怒します。

具体的にどのようなやり取りがあったのか、その詳細はわかりませんが、日本書紀に記述が残る煬帝の返答には、最初は「倭王」と評してたところを「倭皇」とし、

「倭国は遠い海の向こうにあるが、よく人々を治めているようで、国内はとてもおだやかであることを知ることができた。至誠の心はとても深いものであり、はるばる朝献してきたその心をうれしく思う」とあることから、小野妹子が優れた外交手腕を発揮したことがうかがえます。

実際、翌年に髄から帰国する際には、隋からの特使「裴世清」のほか12人の使節団を伴っており、この使節団を送迎する名目で608年に派遣された二度目の遣隋使でも、代表として同行しています。

 

この時代、日本列島から大陸へ渡るには、木造船で1カ月かかり、常に危険と隣り合わせの航海を強いられました。

小野妹子は優秀な外交官であったと同時に、2度の大陸への派遣から無事に帰国を果たすという強運の持ち主でもあったのです。

小野妹子 女性説の根拠とは?

さて、小野妹子の女性説の根拠はどのようなものなのでしょう。

実は、「小野妹子」という名前にポイントがあります。

もちろん、小野妹子の「子」ではありません。

古代中国では教養があり、人格に秀でた男性に「子」という敬称を用いたことから、飛鳥時代の男性には「~子」という名前の人物が多数存在しているからです。

 

注目するのは「子」ではなく、「妹」の文字です。

現在と同じように、血のつながりを持つ妹という意味もありましたが、当時の「妹」には妻や愛人のことも「妹」と言っていたのです。

なので男性の人名に「妹」を使うのは、少し不自然と言わざるを得ません。

煬帝との交渉も、小野妹子が男性であったのか、女性であったのか、それによっても内容がずいぶんと異なってきたはずです。

ただ、小野妹子が女性だったとしたら、いけばなの始祖とも言われていることを考えると、それも相応しいように思えます。