臣下の娘が皇后に!!光り輝く美しき才媛・安宿媛(光明皇后)

<出典:wikipedia

はじめに

701年。

後に光明皇后となる安宿媛は、藤原不比等の三女としてこの世に生を受けました。

安宿媛は、光り輝くような美しさで、光明子とも呼ばれていました。

美しく才媛であった彼女ですが、身分は臣下の娘。

皇后になることはできない・・・、はずでした。

 

彼女はどうして皇后になることができたのでしょうか?

また、どんな人物であったのでしょうか?

安宿媛の結婚と出産

716年。

16歳の安宿媛は首皇太子の皇太子妃に選ばれ、2年後に安宿媛は阿部内親王(第一皇女)を産みます。

724年。

首皇太子が即位し、聖武天皇となります。

安宿媛は皇太子妃から天皇の夫人となり、3年後に最初の皇子となる基王を産みます。

聖武天皇はとても喜んで、一月後には基王を皇太子に立てると発表します。

 

安宿媛が産んだ基王が皇太子になると決まったということは、次の天皇の地位が約束されたということ。

そもそも、藤原氏の権力強化のために、安宿媛は結婚していました。

これで計画は達成されたかのようでした。

しかし。

生まれた翌年に、基王は亡くなってしまいました。

長屋王の変

基王が亡くなった翌年。

728年の2月10日に事件が起こります。

当時の政治の最高地位である左大臣・長屋王が、妖術のようなものを学んで国家(=天皇)を倒そうとしている、という密告がありました。

その密告により、長屋王は糾問されます。

2日後。

長屋王は自殺に追い込まれ、命を落としました。(長屋王の変)

 

長屋王の変から半年経った8月。

「年号を天平元年とし、天皇夫人の安宿媛を皇后にする」という詔が出されました。

どうして皇后となったのか?

天皇の妻には4つ(皇后・妃・夫人・嬪)あります。

妃以上には皇族の人間がなることになっていたので、臣下の娘である安宿媛が皇后になることは今までに例がないことでした。

 

実は、基王が亡くなった年に、もう一人の天皇夫人が安積親王を産んでいました。

このままでは、安積親王が次期天皇になってしまい、藤原氏の計画が失敗する可能性がありました。

そこで藤原氏は、生まれた子を皇太子とするより、安宿媛を皇后にする策を取ったのです。

 

『続日本紀』では、長屋王に対する密告を偽りとしていて、長屋王の変は藤原氏によって仕組まれたことだと考えられています。

当時の皇后とは、天皇の正室というだけでなく国政に参画する権利を持っており、天皇の位を継承する場合もあったため、とても大きな役割を持っていたのです。

光明皇后の救済事業

光明皇后は、729年に皇后宮職に施薬院・悲田院を置くという救済事業をしています。

皇后となって1年もせず、こういった救済事業に着手したというところから、光明皇后が積極的に国政に関わっていたことが分かります。

仏教政策においては、国分寺・国分尼寺建立や盧舎那仏造立を、聖武天皇に勧めたとされます。