<出典:wikipedia>
国史の編修を命じた天武天皇の意志をついで、元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて、天皇・皇族の身の回りの世話をした役人の口述を記録したのが『古事記』です。
天武天皇の意図は、古事記に詳しく書いてあるように、天皇家の系図や古い伝承を保存することにありました。
客観性を重視した歴史書『日本書紀』
<出典:wikipedia>
古事記は正規の漢文ではなく、漢字を日本語の表音文字として用いていますが、8年後に元正天皇が編修させた『日本書紀』はしっかりとした漢文で書かれています。
これは編集員ができるだけの材料を集めて日本書紀を作り、その中に帰化人も参加していたためと思われます。
また、シナ人などの外国人に見せても分かるようにし、シナに対して恥ずかしくないものを作ろうという意図もあったと考えられます。
とはいえ、第一巻で神代を扱っている点は、シナの官選の歴史書と大きく違います。
前漢の司馬遷は『史記』を書いたときに、神話・伝説を切り捨てる態度で歴史に臨みました。
しかし、日本ではわざわざ神代巻をつくり、しかも一つの話には多くのバリエーションが伝承されていることを認め、それをすべて記録しています。
「一書ニイワク」という形で、ある本にはこう書いてある、またある本ではこう言っていると、いろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて異説をズラッと並べています。
このような書き方は他に例がなく、現代から見ても歴史書として類がないほど良心的です。
日本書紀の編集とシナの歴史書の違い
日本書紀は明らかにシナの歴史書を意識して作られたものですが、素材に対する態度が大きく異なり、当時の日本の精神がうかがえます。
当時、シナでは王朝が何度も替わっていたので、司馬遷自身が古代の伝承そのものに愛着がなかったのではないかと考えられます。
それに対し、日本書紀は編集した人々にとって、自分たちの属する王朝の正史でした。
文字がなかった時代のいろいろな伝承をできるだけ広く集めて編集するしかなかったので、そのように編集するほかなかったのかもしれませんが、それを含めても客観性をもって編集する意図は十分に見て取れます。
現代においても、日本書紀のような客観性を重視した歴史書を持っていない国はいくらでもあります。
古事記、日本書紀は第二次世界大戦終了まで、日本人の歴史観の根底をなしていました。
現代では神話を事実と考える人はいないでしょうが、それを信じた人たちによって日本が動いてきたことは認識しておきたい事実です。