日本は満州まで領土を広げていたが、ロシア(ソ連)もモンゴルにまで勢力を伸ばしていた。
こうして、お互いの占領地域が大陸で接するようになると小競り合いが起きるようになります。
小競り合いは次第に大きくなり、ノモンハン事件へと発展します。
1939年。
満州とモンゴルの国境、ノモンハン付近で外蒙軍と満州国軍が衝突。
日本軍は外蒙軍を撃退します。
すると、今度はソ連軍が参戦し猛攻撃を始めました。
相手は世界最強といわれるドイツ参謀本部で鍛えられた優秀な指揮官ジューコフが率いる機械部隊。
それに対し日本軍は日露戦争のころとほとんど変わらない武器で挑みます。
そのため、誰もが「日本が勝てるわけがない」と思っていました。
そして、実際、一個師団を失ってしまいます。
このような状況のため、戦いが終わった後、日本はソ連に大敗したという認識が広まります。
そして、軍事的にも思想的にも脅威であるソ連に大敗したショックが、日独伊三国同盟へと導いていきます。
実は優勢だった日本軍
さて、ノモンハン事件の真相はソ連が崩壊して様々な資料が現れてから明らかになります。
日本軍は1個師団を失い1万数千人の被害を出しましたが、ソ連軍はなんと2万数千。
飛行機の損害も日本の十倍もありました。
当時の日本軍の戦術は、敵の戦車の後部に飛び乗り入り口をこじ開けて火炎瓶を投げ込むというもので、これがソ連の戦車に大打撃を与えます。
機械部隊に絶対の信頼を寄せていたソ連のトップ、スターリン。
800台もの戦車を失ったことに驚愕し、攻撃を中止します。
これに対し情報にうとかった日本政府は、ヨーロッパ情勢の変化によりソ連が引いていったと誤解し、日本惨敗だけの印象が残ったのです。