近年の歴史観では満州事変は侵略戦争であるとされています。
たしかに、満州事変は関東軍が仕組んだもので、新天地を求める日本人にとって朗報でした。
しかし、それは事実の一面にすぎず、実状はもう少し違っていました。
1912年。
清の皇帝・薄儀(はくぎ)は辛亥革命により紫禁城で暮らすことになります。
1924年。
クーデターで追われた薄儀は日本公使館に逃げ込みます。
1932年。
満州には政権がなく治安が悪い状態が続いていました。
そこで、日本は薄儀を満州国の皇帝に祭り上げ、統治させます。
これは、もともと満州民族の薄儀にとっても好ましいことでした。
満州国の繁栄とアメリカの思惑
満州国建国の精神は「五族共和」
満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の共存共栄をうたっていました。
そして実際、シナ本土や蒙古から大量に移民が入ってきます。
通常、政権不在のまま様々な民族が入ってくれば治安は荒れてしまいますが、満州国建国により治安維持。
生産活動や商業活動も活発になり、見事に発展します。
こうした状況にバチカンを含む二十数か国が満州国の独立を承認。
シナの国民政府も満州国を黙認します。
これに難色を示したのは、アジアに進出をもくろんでいたアメリカくらいでした。
こうして、アジアで驚異的な発展を遂げた満州国でしたが、やはり問題だったのが日本軍主導で強引に行われたということ。
これにより日本は国際連盟での信頼を失い連盟を脱退。
現在では、満州民族は中国の支配下で虐げられて消えかかっています。