アメリカの人種差別。ロシア革命。ブロック経済。
様々な難問が日本に押し寄せると、明治憲法の欠陥が浮き彫りになってきます。
それが統帥権干犯問題でした。
1930年。
ロンドンで海軍軍縮会議が開かれます。
これは、各国の戦艦の保有数を制限することを目的とした会議で、当時の国際世論や他国との力関係から日本も条約を締結します。
しかし、これに軍部が激しく反発します。
明治憲法では統帥権(軍隊の最高指揮権)は天皇の権利になっています。
なのに、政府が勝手に軍縮条約を結ぶことは統帥権の侵害にあたるとして、軍部は激しく政府を攻撃。
条約を結んだ濱口雄幸首相は、右翼の青年にピストルで狙撃されてしまいます。
明治憲法には責任内閣の制度も内閣の規定も内閣総理大臣の規定もありませんでした。
なので、内閣が軍隊を指揮するという規定もありません。
また、軍隊を監督するという条文もありません。
海軍はこの欠陥をついたのです。
当時の野党政治家はこれを政局の問題にして、政権をとろうと動きます。
そして、マスコミもこれに乗っかります。
こうして、日本は第二次世界大戦に向かっていきます。
暴走を始めた軍隊
陸軍は憲法を盾にとって、政府の言うことを聞かなくなりました。
すると、満州にいた関東軍は「陸軍中央の言うことを聞く必要がない」と拡大解釈しはじめます。
そして、1931年。
政府の意向を無視して満州の都市を制圧します。
陸軍首脳は関東軍の暴走に激怒しますが、もともと彼らが国家全体の指揮系統を乱したために起きた暴走でした。
統帥権により政府より軍の権力が強くなると、今度は陸軍と海軍が対立しはじめます。
しかし、政府からリーダーシップは奪われているため、この2つをまとめるリーダーはいません。
こうして、誰も国の意見を統合できなくなり、日本は第二次世界大戦へと進んでいきます。