明治時代|1905年 日本海海戦

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ロシアとのでの戦いは不利を覆して日本の勝利に終わりますが、での戦いも日本の科学力が奇跡を起こします。

当時のロシアと日本の戦力を比較すると、戦艦の数、大砲の門数ともにロシアが上回っており、総排水量にいたってはロシアは日本の倍以上。

日本は造船先進国のイギリスから新造艦を購入していましたが、それを考慮に入れてもロシアのバルチック艦隊相手では不利だというのが世界の見方でした。

しかし、海戦が終わってみれば日本軍の圧勝。

日本の軍艦は一隻も沈まず、バルチック艦隊はほとんどが沈むか捕獲されました。

撃沈した数は戦艦6、巡洋艦5、駆逐艦5、他5つでした。

海戦の常識を変えた日本の科学

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当時の海戦はいかに敵艦を沈めるかが重要でした。

沈める方法は砲弾を撃ち込み敵艦に穴をあけること。

なので、当然、敵艦は砲弾が貫通しないように船体に分厚い鉄板を用いていました。

加えて、戦艦は船の底を破られなければなかなか沈まないという特徴もあり、波で揺れる船の上で砲弾を当てるのが難しいということもありました。

実際、日本海戦において、東郷平八郎大将の船は37発もの砲弾を受けて穴が開きますが、それでも沈まずに戦いをつづけました。

 

さて、このような物量が大きくものをいう海戦ですが、なんと日本軍が一方的な勝利をおさめます。

その理由の一つが、明治24年に発明された下瀬火薬という火薬。

この火薬が生み出す爆風の力は従来の数倍。

炸裂した砲弾のカケラは猛スピードで飛び散り、ダメージを与えます。

また、帰化した三千度の高熱ガスは塗装に引火して火事を引き起こしました。

この火薬を使用していたおかげで、少しくらい狙いが外れても敵艦に大損害を与えることができました。

火薬に加えて、魚雷式の砲弾、無線電信機器の実用化など日本軍は新技術を導入して海戦を有利にすすめたのです。

ちなみに、この海戦のあと、装甲による防御があまり効果がないという考えが広まります。

そして、イギリスは下瀬火薬に対抗するため、巨大戦艦ドレッドノートを造りだしました。

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