明治時代|1876年 征韓論が退けられる

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1860年。

ロシアは沿海州(えんかいしゅう)を中国(清朝)から奪ってウラジオストクに港を開きます。

当時、ロシアは徐々に南下。

陸伝いに勢力を広げていました。

この姿を見た日本は朝鮮半島の重要性を理解します。

このままロシアが南下し、ロシアが朝鮮を植民地にしてしまったら、日本にとって大きな脅威になります。

 

そこで、日本政府は朝鮮国王に外交文書を送って開国近代化を申し入れます。

しかし、朝鮮は「中国ではなく、日本の属国になれ」という文書だと思い、文書受け取りを拒否します。

これに対して、陸軍大将の西郷隆盛は、

「自分が特使として乗り込み、直談判する。もし、自分が殺されたら朝鮮出兵もやむなし」

という“征韓論”を主張します。

日本政府の猛反対!西郷が官職をやめる!!

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しかし、大久保利通らは猛反対。

征韓論の行動は、朝鮮からすれば日本が脅迫に来たと感じられ、西郷は本当に殺されるかもしれません。

また、西欧列国は「日本に朝鮮進出の意図あり」ととらえるでしょう。

そのうえ、日本は急いで商工業を発展させる必要があり朝鮮に陸軍を出兵するような余裕はありませんでした。

 

こうして、大久保らと西郷の主張が真っ向から対立し、死闘のような話し合いが行われますが、結局、西郷隆盛が官職をやめることで決着を迎えます。

 

なぜ、これほどまで西郷隆盛が征韓論を主張したのか。

それは西郷にとって征韓論は、外交問題というよりも内政問題だったためです。

明治維新後、士族たちの地位が低下し、西郷のもとには商工業重視政策にたいする不満が集まっていました。

「これでは維新を実現させた武士たちがあまりにも可哀想ではないか」

そんな心境から、武士が活躍できるように征韓論を主張したのでしょう。

もちろん、ロシアを視野に入れていたのもありますが・・・。

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