足利義政は政治に関心がなく、力もほとんどありませんでしたが、美的感覚が優れていました。
1458年、祖父である義満が造営した花の御所の復旧工事をしたり、美しい盆山や立派な大庭園を造ります。
この当時、各地で飢饉が起こり疫病も流行っていて、賀茂川を死体が埋めるほど凄まじいものでした。
しかし、義政は政治に関心はなかったため、ほとんど気にかけず造園に夢中。
造園、盆景、挿し花など、日本人の自然趣味の原型が、義政のもとで全国に広がります。
義政の贅沢さが分かるのが、1465年の華頂山での花見。
公家や武家を引き連れての花見で、黄金で箸をつくるなど衣服や道具も豪華なものでした。
花見の席では義政自らが歌を詠みます。
咲き満ちて 花よりほかの 色もなし
これは平安時代に藤原道長が詠んだ、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と好一対をなしています。
この豪勢な花見の2年後に応仁の乱がおこりますが、義政は何もせずに詩歌の会と宴会ばかり行っていました。
隠居生活で美的センスを発揮
義尚(よしひさ)に将軍職を譲った義政は、東山の月待山に隠居所を作りはじめます。
当時、幕府の勢力が衰えていたため費用の捻出に苦しみますが、なんとか東山殿(慈照寺)を完成させます。
東山殿には十一の楼閣が建てられますが、その中の一つが現在の銀閣寺です。
義政は審美眼と美的感覚が抜群で、一種の天才でした。
唐や宋の名画を集め、シナで忘れられていた牧谿(もっけい)という水墨画を高く評価。
義政が褒めた茶碗は「大名物」と呼ばれ、秀吉の時代に特別な茶器として尊ばれます。
もともと僧侶たちの精神修養的な意味のあった茶の湯の文化も義政の時代に大きく広がり、義政自身もお茶をたてました。
足利義満が建てた金閣寺に対して、足利義政の建てた銀閣寺は日本人らしい美しさが表れており、日本人は義政によって幽玄の美というものを理解できるようになったのかもしれません。