楠木正成は、武士としては非常に異質な存在でした。
建武の新政が失敗に終わり、理想が裏切られても、楠木一族は何代にもわたって後醍醐天皇のために戦います。
また、戦術はゲリラのようでもありましたが近代的で、この面でも異質でした。
利益で動く武士たちと大儀で動く楠木正成
後醍醐天皇の幕府討伐に参加した武士のほとんどは、自分の領地を増やすために戦いました。
しかし、建武の新政で自分たちがその恩恵にあずかれないと分かると、今度は足利側について天皇に敵対します。
多くの武士に理想はなく、領地の獲得にのみ命を懸けました。
しかし、楠木正成は自分の領土拡張のために戦ったのではありませんでした。
彼は領土ではなく、彼の信じた大義のために戦います。
そのために損をしても命を失うこともいとわなかったのです。
そのため、武家の時代には楠木正成のことは忘れ去られてしまいます。
しかし、日本が近代化すると楠木正成のことが再発見されます。
明治維新以降、彼を偶像化して日本人の生き方の手本になることもありました。
潔く散った楠木正成。南北朝時代の幕開け
いったん九州に逃れた足利尊氏ですが、しばらくすると大軍を率いて京都に攻めあがってきます。
後醍醐天皇は楠木正成に、新田義貞の援軍に向かうように命令。
楠木正成は、「ひとまず足利軍を京都に入れ、食料輸送を断って兵糧攻めをするべき」と主張しますが受け入れてもらえず、勝ち目のない戦に出陣します。
湊川の戦場へ赴く途中、正成は子どもの正行(まさつら)に菊水の紋が入った短刀を渡し、今生の別れを告げます。
「私が死ねば尊氏の天下になるだろうから、おまえは郷里に帰って忠義の心を失わずに生き延び、帝につくし、いつの日か必ず朝敵を倒せ」と。
新田義貞軍の判断ミスで孤立した楠木正成は、勇ましい最期を迎えます。
その後、後醍醐天皇は足利尊氏の和睦を受け入れて、光明天皇(こうみょうてんのう)に三種の神器を譲り、花山院に幽閉されます。
しかし、後醍醐天皇は花山院を脱出。
吉野に逃げると、尊氏に渡した神器は偽物であるとして、奈良に吉野朝を開きます。
こうして、京都に北朝と室町幕府、奈良に吉野朝という南北朝時代が幕を開けます。