第88代、後嵯峨天皇が私情により第一皇子の後深草天皇を退位させ、第二皇子の恒人親王(のちに亀山天皇)を皇位につけたことから天皇家の相続問題が起こります。
そのため、鎌倉幕府主導で後深草系と亀山系(恒人親王系)を交互に皇位につけることにしました。
宋学を学んだ尊治親王
後深草系の花園天皇の時代。
亀山系に尊治親王(たかはるしんのう)という皇太子がいました。
尊治親王は気性が激しく、学問に熱心。
「稽古の君」といわれるほどの人物で、花園天皇も一目置いていました。
この尊治親王が熱心に学んでいた学問が、宋学(朱子学)。
鎌倉時代に禅僧が宋から日本に持ち込んだ学問で、尊治親王の考え方に大きく影響を与えます。
宋という国は蒙古族の元に押されて南へ逃れた王朝なので、異民族蒙古の支配に対して自分たちこそ正統であるという意識がありました。
そのため、宋学は正統を明らかにする正統論の朱子学だったのです。
正統を主張する後醍醐天皇
宋学の立場から見ると、天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に対して幕府が干渉するのは許せない行為でした。
さて、尊治親王は1318年になると天皇に即位し、後醍醐天皇になります。
後醍醐天皇は自分の子である護良親王(もりながしんのう)を皇太子にしたいと考えますが、鎌倉幕府の執権・北条高時は後深草系の親王を皇太子にたてます。
もともと、後深草系と亀山系が順番に皇位につくという原則があったので、北条高時はそれに従ったにすぎません。
しかし、後醍醐天皇は激怒し「これから絶対に鎌倉幕府の言うことを聞かない!!」と決心します。
こうして、正統に対する信念と幕府に対する苛立ちが生まれた後醍醐天皇は、幕府を討って天皇中心の政治を取り戻そうと計画し始めます。