数々の武功を立て、ほとんど一人で平家を倒したと噂された源義経は京都と宮廷で非常に人気がありました。
後白河法皇は義経を従五位下にして判官の位を与えます。
しかし、兄の頼朝はこれを快く思わず、自分を脅かす存在であると感じました。
壇ノ浦で平宗盛・清宗親子をとらえた義経は鎌倉へ戻りますが、頼朝は義経の鎌倉入りを拒否します。
これにより、義経は京都へむなしく戻った後、藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州に逃げます。
奥州、藤原泰衡の裏切り
奥州藤原氏の第三代当主秀衡は義経をかくまいますが、それから9ヶ月後に病で倒れ息子たちに遺言を残します。
「義経を主君に仰ぎ、頼朝と闘うように!」・・・、と。
しかし、頼朝の圧力に負けた息子の泰衡(やすひら)が遺言に背き、他の兄弟たちや義経を殺してしまいます。
泰衡はそのまま義経の首を頼朝に差し出しますが、その後、頼朝軍に滅ぼされてしまいます。
源頼朝はもう一人の弟である範頼も討って兄弟を皆殺ししてしまいます。
頼朝は義経を追うという名目で、全国の行政・軍事・警察権を持つ役職を朝廷からもらうと、国司のかわりに守護と地頭を置きました。
これにより、全国を自分の御家人で占める体制を作ると、最期に奥州藤原氏を征伐して全国を統一。
1192年に鎌倉幕府を開きます。
頼朝の死後。政権争いで源氏が途絶える
二代目将軍には頼朝の嫡男の頼家がつきますが、比企家と北条家の争いに巻き込まれて殺されてしまいます。
そのあとを継いだ第三代将軍、源実朝(さねとも)。
彼は、歌人として有名だが武士としてはイマイチで、甥の公暁(くぎょう)に殺されてしまいます。
その公暁も二日後に北条氏によって誅殺されると、公暁の子どもも非業の最期をとげることになります。
こうして、源頼朝の男系は完全に途絶えてしまい、政権が北条家に移ってしまいます。