源頼朝に代わって京都に攻め込んだのは、信濃で挙兵した従弟の源義仲でした。
1183年。
十万ほどの平家の大軍は、越中と加賀の国境で木端微塵に打ち砕かれます。
これが、倶利伽羅峠の戦い。
義仲が数百の牛の角に松明をつけて敵軍を奇襲しました。
1181年。
すでに平清盛は病気により他界。
あとを託されたのは三男の平宗盛でした。
宗盛は倶利伽羅峠の戦いで敗れると、そのあとも敗戦を重ねます。
7月になると安徳天皇を奉じて、三種の神器とともに京都を去って九州筑前に落ちていきます。
平家に圧迫されていた後白河法皇はすぐに義仲に平家追討の命令を下します。
これにより、朝廷側の軍だった平家が、朝廷の敵という立場に変わります。
京に入った義仲は狼藉により、法王との関係が悪化。
法王は源頼朝に義仲討伐を命じます。
都を手に入れる機会を狙っていた頼朝はこれをチャンスととらえ、弟の範頼と義経に命じて義仲討伐に向かわせます。
義仲は京都の守りを固めて迎え撃ちますが惨敗。
近江国粟津で打ち取られてしまいます。
大活躍!!源義経が平家を滅ぼす
源義仲が頼朝軍に滅ぼされた後、範頼と義経に平家追討の命令が下り、源平合戦がはじまります。
この戦いでは源義経(みなもとのよしつね)が大活躍します。
平家はこの時までに勢力を盛り返していました。
瀬戸内海までの西国を制圧し、讃岐国屋島を本拠地として、京都奪還を狙っていました。
一ノ谷と砦に陣を敷いた平家は、自信満々で源義経を迎え撃ちます。
この一ノ谷の砦。
背後は断崖絶壁でそこに至るまでの道も険しいため、完璧な布陣のように思えました。
しかし、源義経は70騎の馬を率いて断崖絶壁を馬で駆け下り奇襲。
敵の背後をついて平家陣営を壊乱させます。
その後、範頼を主力とする追討軍が九州へ遠征しますが、途中で兵糧がつきほとんど崩壊。
そこで、あらためて義経が出陣します。
義経はわずかな兵力で次々と敵陣を破ると、平家を会場に追い落とします。
追い詰められた平家軍は壇ノ浦で義経の水軍を迎え撃ちます。
この戦いでは、平家を滅ぼすだけでなく、天皇の象徴である三種の神器を奪い返すことも重要でした。
さて、戦いは海戦を得意とする平家の有利に進みます。
しかし、途中で潮の流れが変わると形勢が逆転。
平家は壊滅状態となります。
平氏一門は敗北を悟ると次々と海に身を投じ、平家随一の猛将である平教経は組み付いてきた源氏の安芸兄弟とともに海に沈みます。
こうして平家はだ1185年に壇ノ浦で滅びます。
ちなみに、三種の神器ですが、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は回収されますが、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は見つかりませんでした。
もっとも、この剣は崇神天皇の時に作られた儀式用の複製品で、本物は熱田神宮に奉納されていました。