1180年。
平家に恨みを抱いていた源頼政が、平家に不満を持つ以仁王を担いで平家追討の兵をあげます。
しかし、時期尚早だったこともあり以仁王も頼政も宇治で討たれてしまいます。
平家追討の令旨と源頼朝
このとき以仁王からは平家追討の令旨が発せられました。
この令旨は各地にいた源氏にも届き、意識を変えます。
源頼朝もその一人。
頼朝はしばらく様子を見守っていましたが、京都にいる三善康信から「以仁王の令旨の妍が京都で露見したから、奥州の藤原氏を頼って逃げるように」という手紙が届きます。
しかし、頼朝は逃げるのではなく戦いを選びます。
父の義朝の時代から縁のある関東の豪族に挙兵を呼びかけると、伊豆を支配している山木兼隆(かねたか)を打ち取ります。
このまま順調にいくかと思いきや、小田原での戦いで平家側の大軍に負けてしまいます。
敗戦後。再び兵を挙げた源頼朝
源頼朝は船で房総に逃れ、千葉であらためて源氏の兵を集めます。
このとき、上総の平広常が二万の大軍を引き連れて参上。
平広常は「頼朝はさぞ喜ぶだろう」と思っていましたが、「なぜいまごろ来るのか」と叱責を受けてしまいます。
これにより、さすがに源氏の棟梁は違うと感じた広常は忠誠を誓うことに決めます。
この時期の豪族の動きを見ると、源氏の正統であったことが、いかに重要かが分かります。
源頼朝の棟梁としての資質と威厳に大軍がついてきたのです。
平清盛は5千ほどの頼朝追討軍を結成。
進軍の途中で兵をつのり、静岡につくころには5万の軍勢となります。
対する頼朝は、これを迎え撃つために二十万ともいわれる大軍を率いて鎌倉を出発。
奥州で藤原秀衡の保護を受けていた弟、源義経とも合流し、戦に向かいます。
こうして、平氏と源氏の対決が富士川ではじまります。
・・・、と誰もが思いましたが、源氏側は二十万という大軍。
これにビビっていた平家の軍は富士川にいるときに、水鳥の羽音を聞いて源氏の総攻撃がはじまったと勘違いし、我先にと逃げ出してしまいます。
こうして、一度も戦うことなく、平家の軍は崩壊し源氏が勝利します。