<出典:wikipedia>
鑑真(がんじん) 688年~763年
688年。
中国の揚州江陽(ようしゅうこうよう)で、鑑真は生まれました。
鑑真は14歳で僧になると、20歳のときに長安へ!!
仏教指導者としての資格を獲得します。
資格獲得後も厳しい修行を続けた鑑真は、人々に敬われ、やがて多くの僧が鑑真の教えを受けに来るようになります。
鑑真が育てた弟子は4万人とも言われています。
733年。
普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)がやってきます。
2人は日本から来た若い僧で、唐で仏教を学びながら、優れた僧を探していました。
742年。
2人は鑑真を訪ねるため揚州の大明寺にいき、弟子を紹介してもらおうとします。
普照と栄叡の熱意に打たれた鑑真。
日本へ渡って仏教を広める人を募ります。
しかし、だれも返事をしません。
そこで、「仏法のためなら命を惜しむことはない。私が行こう。」と決心します。
日本へ行くことを決心した鑑真は、何回も日本へ渡ろうとします。
・・・が、そのたびに弟子の妨害に遭ったり船が難破したりして、日本にたどり着けません。
難破により鑑真は失明。
栄叡は亡くなってしまいます。
それでも、鑑真は決心を変えませんでした。
753年。
日本から来た遣唐使の船に、鑑真がこっそり乗り込みます。
そして、遭難しながらもようやく日本の鹿児島に到着。
翌年、普照とともに平城京に到着します。
日本へ渡ろうと決心してから、実に12年。
鑑真はすでに66歳になっていました。
日本に来た鑑真。戒律を教える
都に入った鑑真は、東大寺大仏殿の前に戒壇(式場)を設け、戒律を教えることを任されました。
そして、聖武上皇や孝謙天皇、そのほか多くの僧たちが、鑑真から教えを受けます。
758年。
孝謙天皇から鑑真へ大和上の称号がおくられました。
鑑真は僧の資格制度も整えました。
僧が守るべき決まりを示し、経典を正しく読み理解することが僧として大切であることを示したのです。
759年。
鑑真は平城京の西に唐招堤寺を建て、多くの層を集めると、そこで仏教を教えました。
また、仏教以外にも、経典・仏像・薬学・建築などの知識も日本に伝え、日本文化に大きく貢献しました。
そして、763年。
鑑真は静かに息を引き取りました。