<出典:wikipedia>
野口英世 のぐちひでよ (1876-1928)
1876年。
野口英世は福島県の貧しい農家に生まれ、清作と名づけられました。
小さいときに、囲炉裏の火で指5本がくっつくほどの大やけどを負います。
小学校をトップの成績で卒業した野口。
それを見た小林先生の援助で、高等小学校に通えることになります。
また、やけどで不自由だった手も、先生や友人の援助で手術を受け、動かせるようになります。
これがきっかけで、野口は医学の道に進もうと決心し、卒業後、手術をしてくれた会津若松の医院で働くこととなります。
1896年。
野口は東京へ出て働きながら勉強を開始。
翌年。
医師開業試験に合格します。
試験に合格した野口でしたが、医者にはならず研究者になろうと考えました。
そこで、1898年。
北里柴三郎の伝染病研究所に入り、細菌学の研究をはじめました。
そして、このころ、清作から英世へと名前を変えました。
研究所の助手として過ごす日々。
あるとき、アメリカからフレクスナー博士がやってきます。
この案内役をした野口は、これがきっかけでアメリカに渡ることとなります。
野口英世の名が世界に知られる
アメリカに渡ると、ペンシルベニア大学の助手になり、その後1年間デンマークに留学。
蛇の毒の研究で大きな成果をあげます。
この研究が認められ、ロックフェラー医学研究所に入所。
次々と新しい研究に取り組み、梅毒菌や狂犬病、小児マヒの研究で業績を上げていきます。
野口の名は世界中に知られるようになり、1915年には学問で最高の業績を上げた人々が集まる帝国学士院の会員に推薦されました。
また、このころ2度にわたってノーベル生理学医学賞の候補にも挙がりますが、当時の世界情勢から受賞には至りませんでした。
1918年。
アフリカや南アメリカで流行していた黄熱病の調査を開始します。
黄熱病は、蚊によってうつる伝染病で、とても死亡率が高いものでした。
3年間にわたってメキシコ・ブラジルで調査をした野口。
1927年に西アフリカで黄熱病が発生すると、ガーナに調査・研究に行きます。
ところが、この研究中に野口は黄熱病を発症。
翌年。
これが原因で亡くなってしまいました。