親鸞(鎌倉時代)

ShinranShonin

<出典:wikipedia

 

親鸞(しんらん) 1173年~1262年

 

1173年。

親鸞は京都で位の低い貴族の子として生まれました。

親鸞は小さいころに両親と死別。

僧となって比叡山(ひえいざん)に入ります。

 

当時、各地で天災や飢饉が発生していました。

仏教では仏の教えが忘れ去られて、世の中が乱れる”末法の世”であると考えられていました。

 

比叡山の延暦寺(えんりゃくじ)で修行を重ねた親鸞は、天台宗に疑問を持ちます。

29歳になると、山を下り、救いを求めるために六角堂にこもります。

六角堂にこもり95日目のこと。

夢の中に聖徳太子があらわれ親鸞にこう伝えます。

「阿弥陀仏(あみだぶつ)にすがり、念仏を唱えるのだ」

これを聞いた親鸞は、同じ念仏の教えを説いている法然(ほうねん)を見つけると、すぐに訪問します。

 

法然は
「一心に念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、だれでも極楽浄土へ行ける」
と説いていました。

親鸞が法然のもとへ訪れると、法然は丁寧に親鸞の悩みを聞き始めます。

心を開いた親鸞は教えを素直に受け入れ、法然についていくことを決心。

「念仏を唱えたために、たとえ地獄へ落ちたとしても後悔はしない」とまで思うようになります。

京都から追放される

法然の教えは、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけ。

この分かりやすい教えは、人々に受け入れられていきます。

しかし、古い仏教の僧たちはこれに危機感を持ち、念仏の禁止を朝廷に訴えました。

1207年。

なんと、念仏禁止の願いが聞き入れられてしまいます。

それにより、法然は四国、親鸞は新潟に流されてしまいます。

 

4年後。

親鸞は許されて、京都へ戻る許可が出ます。

しかし、親鸞はそのまま越後国で教えを広めると、今度は茨城へ移り農民たちに念仏を広めました。

 

今までの仏教は、仏像を作ったりお経を読んだりする善人だけが救われるというものでした。

しかし親鸞は、そのようなことができず、欲望や悩みを持ち、生き物を殺さなければ生きていけないような”悪人”こそ、阿弥陀仏が救う人達だと説きました。

そして、阿弥陀仏の救いを信じる心さえあれば、極楽浄土に行けるのだという教えを広めていきます。

こうして、親鸞は浄土真宗という仏教を作り上げました。

 

60歳になった親鸞。

京都へ戻り、それまでの教えをまとめた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)を作成。

90歳で死ぬまで、教えを広め続けました。

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