<出典:wikipedia>
ゲームや漫画の世界ではヒロインたちが戦って大活躍。
戦うヒロインなんて二次元だけ……と思われがちですが、世界中の歴史においても、戦争などで重要な役割を果たした女性は少なくありません。
有名なところでは、フランスのジャンヌ・ダルクや『三国志』に登場する王異。
日本史だと夫、木曽義仲と共に源平合戦で活躍した巴御前が筆頭に挙がるでしょう。
では、群雄割拠し日本中で戦争をしていた戦国時代はどうだったのでしょうか。
今回は日本の戦国時代の中にあって、男顔負けの活躍をしたバトルヒロインを見ていきます。
秀吉も圧倒した勇猛な姫・立花誾千代
立花誾千代(ぎんちよ)は、勇将・立花道雪の娘。
道雪が57歳の時に生まれた子で、跡継ぎにするべく溺愛されて育ちました。
勇将の父に育てられたため、誾千代は武芸に秀でた男勝りな姫君に成長。
なんと、7歳で城主となりました。
誾千代の夫・宗茂が朝鮮出兵で不在の時、豊臣秀吉は「宗茂の妻を手籠めにしてやろう」と企てて名護屋城に呼びつけます。
企みに気付いた誾千代は、自分もお付きの侍女たちも完全武装して城に乗り込み・・・。
そのあまりの怖さにさすがの秀吉も手を出せなかったとか。
誾千代が武装をする機会は他にもありました。
夫の宗茂が不在の際は、城を守るのは誾千代の役目でしたので、侍女や自分も武装しいつ襲撃されても対応できるように備えていたようです。
実際に、関ケ原の戦いで敗北した時は、攻め寄せる敵を追い返すために出撃しました。
立花誾千代は34歳の若さでこの世を去っていますが、病死とも気が狂って井戸に身を投げたとも言われています。
怪談話のようなものまで伝わっている、戦国時代の姫武者の中では異色な人物とも言えます。
忍城防衛の功労者・甲斐姫
甲斐姫は、『のぼうの城』のヒロインとして一躍有名になった女性。
忍城(現在の埼玉県行田市)城主、成田氏長の長女です。
東国一の美女と言われており、武芸や兵法にも秀でた才色兼備でした。
1590年、豊臣秀吉はいつまでも服従しない北条氏に対して大規模な小田原攻めを決行します。
その当時、甲斐姫の父(城主の氏長)と主な軍勢は小田原城に詰めており、忍城には僅かな兵と農民ばかりが残されていました。
忍城攻めを任された石田三成は、大規模な水攻めをおこないますが失敗に終わります。
後日援軍に来た浅田長政は忍城を攻略せんと城門に攻め寄せました。
その時、甲斐姫が成田家の名刀「浪切(なみきり)」を携え手勢200名ほどを率いて、浅田長政の軍勢を押しとどめ、多くの敵を討ち取りました。
さらに数日後には、加勢に来た真田昌幸・信繁父子の軍勢も圧倒しました。
この甲斐姫の大活躍で、石田三成は「女が守る城も落とせないのか」と笑い者にされたといいます。
その後、北条は滅亡し、忍城は開城することになりました。
甲斐姫は蒲生氏郷とところに身を寄せましたが、ここでも謀反を企てた浜田兄弟を討ち取っています。
豊臣秀吉は甲斐姫の美貌と武勇に惚れ込み、側室にしたと伝えられていますが、その後の彼女の同行はさだかではありません。
一説には豊臣秀頼の養育係をしていたとも言われています。
余談ですが、甲斐姫の祖母・妙印尼も武勇に優れた女性だったようです。
甲斐姫の勇猛さは遺伝なのかもしれませんね。
戦場に居座った鬼母・義姫
義姫は、最上義光の妹、というよりも伊達政宗の母という印象が強い女性です。
伊達政宗の人生に多大な影響をもたらした人物ですが、非常に気の強い女性だったと伝えられています。
1588年。
伊達政宗は最上義光・大崎義隆連合軍と合戦をしますが、劣勢を強いられます。
長期戦になったら伊達に勝ち目はない……そんな時、戦場に輿に乗ってやってきたのが義姫でした。
義姫は鎧兜を身にまとい、80日もの間両軍の間に陣を張って居座り続け、和睦をするように強く説得しました。
和睦を嫌がっていた二人でしたが、義姫の熱心な説得もあり一時休戦をすることにしました。
当時、戦国大名の妻(母)は男が戦に行っている間、留守を預かりしっかり守るのが仕事でした。
そんな時代にあって、80日も武装し戦場に居座り続けたのは、男顔負けの鉄の意志があったからに他なりません。
まとめ
戦国時代の姫武者たちを3人紹介してきましたが、いかがでしたか?
ここでは高貴な身分の女性を紹介しましたが、日本史の中で戦争が多かった時代は、女性が戦場に立つことは珍しいことではなかったとも言われています。
首塚から出土した遺骨の2割くらいは女性の遺骨だったという話もあり、足軽として戦っていた女兵士は多かったと考えられます。
近年では歴史ドラマなどでも女性主人公が人気を集めていますので、いつの日かここで紹介した姫武者が主人公になることもあるかもしれませんね。