<出典:wikipedia>
福地 桜痴 ふくち おうち
福地 源一郎(ふくち げんいちろう)
天保12年3月23日(1841年5月13日) – 明治39年(1906年)1月4日
はじめに
福智桜痴(源一郎)は1841年、長崎で生まれました。
そして64歳でこの世を去るまでに、幕府に仕え、政府に仕え。
記者、政治家、戯曲家となって活躍しました。
多方面で才を発揮した福智桜痴とは、果たしてどんな人物でしょう。
徳川幕府での桜痴
1859年、桜痴は通詞として幕府に仕えます。
通詞とは、長崎・出島の地方役人のことで、通訳と商務官を担っていました。
その後、1861年と1865年に遣欧使節の随員として、ヨーロッパへと渡りました。
大政奉還が起こり明治政府が立つ、桜痴は呼び出しを受けます。
しかし、桜痴は応じませんでした。
時勢を見て、強い佐幕感情に駆られていた桜痴は、討幕に対して反感を持っていたのです。
江湖新聞の発刊
1868年。
桜痴は江湖新聞の発刊をしますが、薩長討幕軍を非難する内容で、僅か二か月ほどで逮捕されてしまいます。
その後、桜痴は釈放されますが、江湖新聞の発行は禁止になります。
釈放後。
桜痴は驚くことに大蔵省へ入ります。
知り合いだった渋沢栄一の紹介で伊藤博文に会うと、二人は意気投合し、大蔵省へ誘われたのです。
東京日日新聞社長へ
1874年に東京日日新聞(初めての日刊新聞)に入社した桜痴は、主筆を務め、その2年後の1876年に同社の社長となります。
立憲帝政党の発足
1881年、板垣退助が自由党を結成。
翌年、大隈重信が立憲改進党を結成します。
桜痴はこの自由党、立憲改進党に対抗する組織として、立憲帝政党を組織します。
しかし、翌年には解散します。
そして日日新聞の社長も退き、桜痴は作家へと転身します。
政治から離れて……
歌舞伎座を開き、それは成功したものの、出資者に座主の立場から外されてしまいます。
しかし、ここでもまた転機が訪れます。
9代目市川團十郎との出会いです。
二人は意気投合し、これをきっかけに、桜痴は歌舞伎座の立作者の座を不動のものとしていくのです。
この間、桜痴はたくさんの本を出しました。
そして1892年には『幕府衰亡論』、翌年には『懐往事談』という本を出します。
これらによって、とても優れた知識人であると評価されます。
最後に桜痴が選んだものは……
1903年に市川團十郎が亡くなると、桜痴も戯曲を書くことをやめてしまいます。
そして彼はなんと、また政治の道へと戻ります。
翌年の衆議院議員選挙に当選しますが、1906年の冬、64年間の生を終えました。
桜痴は突拍子のない行動ばかりをしているように見えますが、彼には行動するための理由が常に力強くあったのかもしれません。
だからこそ、数多の顔を持つ男となりえたのではないでしょうか。