<出典:wikipedia>
はじめに
祇園女御は、生没年不詳、出自詳細も不明という謎多き女性。
にもかかわらず、祇園女御は貴族社会に大きな影響力を持ち、官位の昇進にも関わったほどの人物です。
その権力の背景には、思い通りにならないものは三つ(賀茂川の水、双六の賽、山法師)という、天下三不如意で有名な白河院の寵愛がありました。
ちなみに、『今鏡』では「白河院に下級官女として仕えていた」とあり、『吾妻鏡』では「源仲宗の妻だった」とありますが、定説と言えるほどのものではありません。
祇園女御のあだ名が広まる
祇園女御というのは、実はあだ名です。
女御という名称は、宮中での特定の地位のことで、誰もが好きに名乗れるわけではありません。
古くは摂関家の娘しか名乗ることができない身分です。
祇園女御は女御宣旨を受けたわけでもないので、普段は白河殿と呼ばれていました。
しかし、多くの女性と関係があった白河院ですが、祇園女御への寵愛ぶりを見た人々が、皮肉を込めて“女御”と付けたのです。
そして“祇園”に住居を構えていたことから、祇園女御というあだ名になりました。
祇園女御と平清盛
祇園女御は白河院にとても愛された女性ですが、彼女自身には子どもがいませんでした。
しかし、彼女の妹には男の子が一人生まれます。
白河院との間にできた子どもです。
その男の子が、のちに藤原氏を倒し、平家の栄華を築き上げる平清盛です。
祇園女御の妹は、清盛を産んで三年で亡くなってしまいます。
それを哀れに思った祇園女御が、清盛を自分の猶子(養子)にします。
その後、清盛は平忠盛に引き取られます。
そもそも、祇園女御の妹は、清盛を身ごもっていた時に、忠盛に褒美として与えられていました。
当時は、高貴な人の子どもを身ごもった女性を与えられることは名誉なことだったので、忠盛は喜んで賜りました。
そして生まれた男の子・清盛を嫡男とするのです。
『平家物語』では、「清盛の異例の出世や横暴な態度は、法皇の落胤であったため」と説いています。
忠盛は褒美として、喜んで祇園女御の妹を賜ったと書きましたが、自分の妹が白河院と関係があったことを、祇園女御はどう思っていたでしょう。
謎多き女性ですが、白河院から多くの遺産を与えられ、その中に仏舎利(釈迦の遺骨)が二千粒ありました。
仏舎利は仏教を信じる人にとって、とても尊いものです。
白河院がこれを祇園女御に遺したことも、それだけ彼女を大切に思っていたからだと窺えますが、祇園女御はのちに清盛に譲っています。
それは、彼女が清盛を大事に思っていたからこそではないでしょうか。