<出典:wikipedia>
田中正造 たなか しょうぞう (1841-1913)
1841年。
田中正造は、下野国小中村(栃木県)で生まれました。
17歳の時に、父のあとをついで名主となりましたが、領主が年貢を引き上げようとしたことに反対して捕えられ、村から追い出されました。
やがて、小中村にもどってきた正造は、自由民権運動に参加。
栃木新聞を創刊して、民権思想を広めるのに力を入れました。
1880年。
栃木県会議員に当選した正造は、各地で演説会を開いて民権運動を広めていきます。
しかし、1884年。
県知事が進める道路工事に反対して、またも捕えられてしまいます。
1890年。
帝国議会が開かれて第一回選挙が行われると、正造も立候補。
衆議院議員に当選しました。
足尾銅山鉱毒事件を追及
このころ足尾銅山から渡良瀬川に流れ出る鉱毒で魚が死んだり、稲が枯れる被害が多発。
衆議院議員となった田中正造は、帝国議会で足尾銅山鉱毒問題を取り上げ、政府の責任を厳しく追及します。
しかし、古河財閥と結んでいた政府は、何も対策しませんでした。
1896年。
2度にわたって渡良瀬川(わたらせがわ)が氾濫。
周辺の農民や漁民が大きな被害を受けてしまいます。
正造は渡良瀬村を反対運動の中心にするとともに、帝国議会で銅山操業停止を訴えます。
被害を受けている人々も、何度となく東京へでて解決を訴えます。
しかし、政府は軍隊・警察を使って東京へ行こうとした人々を押さえつけ、100人近い人々を捕えてしまいます。
こうした様子に、正造は失望。
政府や議会は頼りにならないとして、1901年に衆議院議員を辞めました。
議員をやめた正造は、議会から帰ろうとした明治天皇の乗った馬車に向かって、操業停止を訴える直訴状を渡そうとします。
しかし、駆け寄ったところを取り押さえられ、命を懸けた直訴は失敗に終わります。
また、このころになると鉱毒問題の認識が広まり世論の声が大きくなってきていました。
そのため、1902年。
政府は洪水による鉱毒の被害を防ぐための遊水地を作り、流れ出た水を一時溜めておくことにしました。
これに対し、正造は「問題のすり替えで根本的な解決ではない」として反対運動を継続。
その後も運動を続けましたが、1913年に病気で亡くなってしまいました。