<出典:自由主義史観研究会>
池田末男 いけだすえお
(1900年~1945年)
1900年12月。
池田末男は愛知県で誕生。
父は陸軍憲兵少佐、兄は陸軍中将という軍人家系でした。
1922年。
陸軍士官学校を卒業した池田は、1925年に陸軍騎兵少尉になります。
終戦間際。ソ連の侵略!!
1945年。
日本の敗北がほぼ確実となり、連合国は日本の占領権を主張します。
ソ連も「北海道の釧路・留萌以北の領土」を要求。
しかし、アメリカ大統領トルーマンはこれを拒否しました。
これを受け、なんとか領土を獲得したかったソ連は、GHQが本格的に日本支配を始める前に動きます。
8月9日。
ソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄し日本に宣戦布告してきました。
ソ連の宣戦布告を受けた日本。
北海道、南樺太、千島列島を管轄していた第5方面軍が、ソ連との戦いにむけ準備します。
しかし、8月15日。
日本の敗戦が伝えられると、第5方面軍は武装解除の命令を受けます。
命令内容は以下の通り。
1、一切の戦闘行為を停止すること
2、やむを得ない自衛行動は認めること
3、武装解除の完全徹底は8月18日16時とすること
これを受けて、各部隊は武装解除の準備を始めました。
8月17日夕方。
ソ連軍がカムチャッカ半島を出撃。
8月18日午前1時に武田浜に150発の砲弾が撃ち込まれます。
「敵 上陸開始 兵力数千人」
第91師団司令部は監視哨から報告を受けます。
しかし、すでに武装解除をはじめていた日本軍。
急いで戦闘準備をはじめます。
「戦車隊の神様」池田末男出撃!!
18日午前2時半。
占守島の南西部にいた戦車第11連隊に出撃命令が届きます。
「士魂部隊」と呼ばれた第11連隊の連隊長は、「戦車隊の神様」と呼ばれた池田末男でした。
出撃命令を受けた池田末男は直ちに行動を開始。
武装解除の命令で装備が外れていた戦車を、急いで準備。
しかし、かなり時間がかかってしまいます。
そこで池田は、準備のできた戦車から順次発進させました。
18日午前4時。
20輌ほどの戦車が天神山に集合。
池田末男は訓示を発します。
「諸子は今、赤穗浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか
あるいは白虎隊となり玉砕を持って民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか
赤穗浪士とならんとするものは一歩前へ出よ
白虎隊ならんとするものは手を挙げよ」
次の瞬間。
全員が一斉に手を挙げます。
池田末男は涙を浮かべて感謝をのべ、訓示を終えます。
18日午前6時50分。
出撃前に池田末男が無線報告をします。
「池田連隊は四嶺山のふもとにあり。
志気旺盛なり。
0650
池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。
祖国の弥栄(いやさか)を祈る。」
池田連隊は横一線に開いて、ソ連軍に進撃開始。
ソ連軍は、霧の中から突然現れた戦車隊に混乱します。
池田隊はそのままソ連軍を蹴散らし進撃。
これにより、戦いの要所となる四嶺山を占領されずにすみました。
続いて、池田隊は四嶺山から再出撃。
しかし、今度はソ連軍が対戦車銃や45mm対戦車砲を装備して待ち構えていました。
ソ連軍の砲弾は、池田末男の戦車に命中。
池田は占守島に散ることとなりました。
8月21日。
占守島での戦闘がようやく収まります。
戦死した日本兵は約600人。
これに対しソ連軍の犠牲者は3000人でした。
8月22日。
ソ連のスターリンは、北海道占領計画を撤回。
日本軍は劣勢ながら必死に抵抗し、北海道をソ連から守ったのです。