<出典:wikipedia>
栗林忠道 くりばやし ただみち
(1891年~1945年)
1891年。
栗林忠道は長野県で誕生。
1914年に陸軍士官学校を卒業し、その後、陸軍大学校を次席で卒業します。
1927年。
アメリカ駐在武官を務め、1931年にはカナダに赴任しました。
これらの経験からか、栗林は妻によく
「アメリカは戦ってはいけない国だ」
と話していました。
しかし、情勢が変化していき1941年に太平洋戦争勃発。
栗林も戦地に赴くこととなります。
重要拠点「硫黄島」
1944年7月。
太平洋にあるサイパン島がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍は日本本土への空爆を視野に入れはじめます。
11月29日。
東京上空に爆撃機「B-29」が襲来。
しかし、このときの襲撃では思ったような成果が上がりませんでした。
サイパンから東京までの距離は片道2500km。
それに対し、「B-29」の最大航続距離は5300km。
往復でほとんどの燃料を消費してしまうため、あまり成果をあげられなかったのです。
そこでアメリカ軍は燃料補給地を探すこととなります。
サイパン島から北へ1400kmの地点に硫黄島がありました。
ここは燃料補給に絶好のポイント。
硫黄島を手に入れれば、「B-29」の燃料は半分で済み、その分大量の爆弾を搭載できます。
そのため、アメリカ軍は硫黄島に狙いを定めました。
硫黄島死守。栗林の作戦。
硫黄島の大切さは、日本も十分に理解していました。
そこで、1944年5月27日。
109師団長・栗林忠道を硫黄島に派遣します。
栗林は
「こんどは骨も残らないかもしれない」
と妻に別れを告げて、硫黄島に向かいました。
6月8日。
栗林は着任すると、すぐさま硫黄島を探索。
地形を頭に叩き込み、作戦を考えます。
「アメリカ軍は上陸の際、四方を艦艇で包囲して頭上を飛行機で覆い尽くすだろう。
そうなればアメリカ軍を水際で叩くことはできない。
ならば海岸から離れた位置に陣を敷き、持久戦に持ち込むべきだ」
こうして栗林は、擂鉢山と元山地区に複合的な陣地を作り、それらを繋ぐトンネルを掘りはじめます。
しかし、硫黄島は火山島なので、地下を掘り進めると温度が高くなっていきます。
加えて硫黄ガスの発生。
兵たちは劣悪な環境の中、トンネルを掘っていきます。
このとき栗林は、指揮官でありながら兵たちを励ますために工事現場をまわったといいます。
栗林の高潔な人柄は、硫黄島での生活でも発揮されました。
栗林は日本本土から送られてきた貴重な生野菜や水を平等に分け与えたのです。
兵たちとともに自らも水筒の水1本で過ごすこともあり、指揮官としては異例のことでした。
一般兵たちは、雲の上の存在である指揮官・栗林が自ら律している姿を見て奮起。
士気が高まります。
1945年2月16日。
地下トンネルを予定の4割まで作ったところで、ついにアメリカ軍が姿を現します。
上陸部隊・第56任務部隊を指揮したのはホーランド・スミス。
「硫黄島の占領は5日で終わる」
ホーランド・スミスはこう豪語していたといいます。
36日間の激闘。硫黄島守備隊の玉砕
硫黄島近海に集結したアメリカ軍艦艇。
猛烈な砲撃を開始します。
艦艇からの砲撃は3日間続けられ、日本軍の主要火砲はほぼ消失したと判断されます。
翌日。
アメリカ軍は午前9時に上陸開始。
日本軍の抵抗は少なく、難なく上陸を成功させます。
午前10時すぎ。
日本軍が、アメリカ海兵隊に向けて集中攻撃。
反撃をはじめます。
柔らかい砂浜に足を取られていたアメリカ軍はたちまち撃破され、4人に1人が死傷という大打撃を受けました。
それでも、圧倒的な物量のアメリカ軍は上陸から4日後。
摺鉢山に星条旗を立てます。
占領はほぼ完了かと思ったアメリカですが、ここから栗林の作戦が本領を発揮します。
栗林と日本軍守備兵には共通した思いがありました。
「アメリカ軍撃退が不可能となった場合でも、
できるだけ多くの血と弾薬と時間を消費させて、本土決戦の時間を稼ぐのだ!!」
栗林は、日本大本営から受けた「玉砕せよ」の命令に反対。
最期の一兵になってもゲリラとなって戦うように指示します。
2月16日に始まった硫黄島の戦いは30日を過ぎ。
2万人以上いた日本守備軍は残り1,000人をきります。
3月25日。
栗林は白タスキをかけ、残りの兵力400人と一緒にアメリカ軍野営地へ奇襲。
アメリカ兵170人とともに硫黄島で散りました。
こうして、日本兵の抵抗がなくなった硫黄島はアメリカが占領。
日本軍の死傷者2万933名。
アメリカ軍の死傷者2万8686名。
両者ともに甚大な被害をだし、硫黄島での戦いが決着したのです。
アメリカ軍は当初の目的通り硫黄島を占領しましたが、あまりに被害が大きく、この戦いを「勝者なき戦い」と呼ぶようになりました。