<出典:wikipedia>
板垣退助 いたがきたいすけ (1837-1919)
1837年。
板垣退助は土佐藩(高知県)の武士の家に生まれました。
1867年。
戊辰戦争がはじまると、板垣退助は土佐藩の武士を率いて出陣。
会津城の攻撃などで活躍します。
戊辰戦争が終わると、土佐に帰り、藩政の改革をはじめます。
やがて、新政府の高官になりましたが、1873年。
新政府に征韓論が却下されると、西郷隆盛や後藤象二郎らとともに、政府を去りました。
政府を去った板垣退助。
1874年に政府に国会開設の意見書を提出します。
「現在の政府は薩摩藩や長州藩などの一部の者たちによって動かされている。
これを改めるため、国会を開いて人々の意見を聞くべきだ」と。
国会開設を求める動きはやがて多くの人々に受け入れられ、自由民権運動という運動に発展します。
自由民権運動はやがて全国へ広まり、板垣もその先頭に立って演説を繰り返します。
1880年。
全国の代表者が大阪に集まると、国会期成同盟を結成。
政府に国会開設の要求書を提出します。
これに対し、政府は演説会を取り締まるなどして運動を抑えようとします。
しかし、運動はどんどん活発になり、1881年。
運動を無視できなくなった政府は、10年後に国会を開くことを約束します。
自由党の結成と解党
国会開設が決まると、板垣は自由党を結成。
その党首となります。
1882年。
岐阜での演説中、暴漢に襲われ負傷。
このとき板垣は
「板垣死すとも自由は死せず」
と叫びました。
これにより、人々の板垣に対する共感は大いに高まりました。
負傷した傷が治り、自由党の組織も広がった1882年。
板垣は多くの人々の反対をおしきって、ヨーロッパへ旅立ちます。
実はこれ、自由民権運動を弱めようとした政府が裏で糸をひいていました。
1883年。
板垣は日本に帰国。
このころ、米やまゆの値段があがっていて、農民の生活が苦しいものになっていました。
そして、実力で政府の政策を正そうとする自由党員が出てきました。
これを見たが板垣は、実力行使を嫌い、1884年に自由党を解党してしまいます。
1890年。
国会が開かれると、板垣は政府に協力を開始。
1896年に伊藤博文内閣の内務大臣となり、2年後には大隈重信と内閣を作ります。
この内閣は、大臣の多くを政党員から選んだ日本初の政党内閣でしたが、わずか4ヶ月で潰れてしまいました。
その後まもなく板垣は政界から引退。
1919年に息を引き取りました。