<出典:wikipedia>
木戸孝允 きどたかよし (1833-1877)
1833年。
木戸孝允は、長州藩(山口県)の医者の子として生まれました。
8歳の時に桂家の養子になり、明治になるまでは桂小五郎と呼ばれていました。
木戸は藩の学校である明倫館で学ぶと、1849年。
松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰の教えを受けます。
その後、江戸に出て、斉藤道場で剣術を学び、江沢太郎左衛門のもとで西洋兵学を学びました。
やがて、長州藩藩主の毛利敬親(たかちか)を助けて藩の政治に参加するようになります。
そして、久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに、藩の意見を「外国を打ち払う」という方向に導いていきます。
やがて幕府は朝廷と結んで、「外国を打ち払う」という勢力を抑えつけます。
幕府は薩摩藩とも手を組んで、長州藩を京都から追放。
木戸は、幕府の厳しい取り締まりを受け、新選組にも襲われますが、京都にとどまって攘夷運動を続けました。
倒幕と明治維新
1863年。
「外国を打ち払う」という攘夷の考えを持っていた長州藩は、下関海峡を通る外国船に砲撃。
イギリスなど4ヶ国と戦争になります。
外国との戦いを経験した木戸は、「外国を打ち払う」のは無理だと実感。
やがて、長州藩の実権を握ると、薩摩藩と結び、幕府を倒します。
明治政府が成立すると、木戸は大久保利通とともに実権をにぎり、新政府の基本方針を明らかにした”五箇条の御誓文”を作成。
また、版籍奉還(はいはんちけん)や廃藩置県(はいはんちけん)などの政策も進めていきます。
1871年。
木戸は岩倉使節団に副使として参加。
近代国家を作るためアメリカとヨーロッパを視察します。
1873年に帰国すると、西郷隆盛の征韓論を拒否し、国の力を高めていきます。
しかし、翌年。
大久保が台湾に出兵。
木戸はこれに反対して政府を離れます。
やがて、大久保との間で話がまとまり再び政府に戻りますが、まもなく病気となり、西南戦争の最中に亡くなりました。